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田中優子、松岡正剛
昭和問答

ガイド

両者の最後の対談本

書誌

author田中優子、松岡正剛
publisher岩波新書
year2024
price1120+tax
isbn978-4-00-432039-5

目次

1本文
2抄録

履歴

editor唯野
2026.2.15読了
2026.2.21公開

前二著を引き継いでいるので、それに対する対話の更なる深化が冒頭から見られるのは大変有意義ではあるが、松岡正剛も本書のあとがきを書いた後で亡くなってしまい、これが最後の対話となってしまった。こちらの予想を超えた視座や視点の数々は非常にためになるが、一方で一連の問答が終わってしまったことにより、逆に解決されていない話題が山積みのまま残ったという印象も強い。

ようやく天皇などについても少し語られているが、全般的に田中優子の発現にはっきりした意志が感じられ、松岡正剛に解説が多いのは、これも病のせいだろうか。両者がともに大変な読書家というのが最大の共通点のような気もするが(どうやったら高校生でレヴィ・ストロースが読めるのか理解できないが、それはさておき)、最終章でようやく日本(人)にとっての自立や物の見方について突っ込んだ対話がされているので、その一部を引用したいと思う。

-/-日本は本来、そういうアジア仏教のような同時並立的なあり方を好んでいたんじゃないかと思うんです。

にもかかわらず近代になると唯一性とか統一感、ユニティ、アイデンティティというものを欲しがるようになった。もう少し日本の本来のあり方や歴史、日本の方法や思想に目を向けて、そこに拠点を置こうとするような発想はできなかったのだろうかと思いますね。(松岡)

田中 そういう日本の本来から、西洋でいう「自我」とか「自己」とか「私」というものを、日本的にとらえなおすという方向性もあったはずよね。それがあれば人間にとって自立とは何か、国が自立するというのはどういうことかということも、もっと深く考えることができたかもしれませんね。

松岡 ぼくが「日本という方法」ということを勘案して、日本がアジアや中国から何を学んできたのかを学びなおすとともに、これが日本の独自の方法と呼べるのではないかというものを探索してきたのも、まさにいまの話に通じるところです。それはつまり、日本のアイデンティティそのものを編集的自己としてとらえたい、乗り換えと着替えと持ち替えが可能な歴史観、あるいは自己観にしたいということです。

田中 私も、自立とか独立というのは、確固たる単体として成り立つことをいうわけではないと思っているんです。それは関係のなかでしか成立してこないものです。国の独立というふうに言う場合にも、それは何らかの独立かという関係のなかで成り立つものである。-/-(p。263-264)

松岡 前にも述べたように、芭蕉が「虚に居て実をおこなふべし」という言葉を残していますね。「実に居て虚にあそぶ事はかなし」とも言っている。リアルな世界に居ながらバーチャルな幻想に遊ぶのではなくて、幻想の領域を最大限に大きくとらえておいて、そこからリアルに戻るべきである、ということを言っている。これは風雅の道を説く教えですが、いまの田中さんの話にも通じることだと思うし、ぼくはこれこそ日本の哲学であると考えてきました。しかしながら、いまの日本人にはこういう考え方はほとんど理解されない。なんで最初に「虚」があるんだ、それはただの虚無ではないか、デカダンスではないかと思われちゃう。あるいは、もっと勘違いして、バーチャルなネット世界が先行するんだと解釈してしまう。-/-

田中 芭蕉が俳諧には三つの品があると言った、と各務支考(かがみしこう)が書いています。『風俗文選』に載っていますね。三つの品というのは「寂寞(せきばく)」と「風流」と「風狂」です。寂寞は情の品、風流は姿の品、風狂は言葉の品。その「言語の品」について芭蕉は、「虚に居て実をおこなふべし、実に居て虚にあそぶ事はかたし」と言った。芭蕉のいう「虚」も、まさに「関係のなかから」ということですよね。芭蕉には「松のことは松にならえ」という言葉もあって、それは自分という存在だけがそこにあるんじゃなくて、そこに松があるのなら瞬間的に松の側に立ってしまえというあり方を諭しているわけです。そうやって瞬間的に松になることによって松が見えると言っている。これもまさに関係の話です。つまり、すべてが相対的な関係のなかで成り立っている。「虚」というのも、そういうあり方のことです。(p.266-267)

田中 大事なことは何をどのように見ようとするのか、そのまなざしの置き方であって、それが価値観の問題にもつながっていく。だとすると、「日本文化」というふうにひと括りで言ってしまうことにも問題があって、そういうものがあるんだと想定して文化を対象化してしまったり分析してしまったりしたら、見えなくなるものがあるはずなんです。そうならないためには、やっぱり「向こう側」に立つ必要があるんじゃないか。(p.277)

松岡 おっしゃるとおり、編集工学はずっと「伏せて、開ける」ということを意識してやってきた。「いないいない・ばあ」をやりつづけてきたんです。-/-そしてある時期から、この考え方を日本にあてはめたいと考えるようになったんですね。-/-でも、こういう考え方はなかなか理解されないんです。それに、そういう日本の「いないいない・ばあ」的、非線形的、非再現型のおもしろさは、統計で数値化してしまう超合理主義には勝てっこないと思われてきた。だって、生まれては消えていく、うたかたみたいだと軽視されるからね(笑)。

田中 だからこそ、その勝てっこないものをいかに日本が抱えられるかどうかが問われますね。となると、競争から降りてしまうという方法しかないように思います。(p.281-282)

この辺を読むと、やはり大意としては前著と同じかなと思われるが、それがさらに深化していることも同時に感じることができてよかった。最初の『日本問答』からも指摘されているように併存性(デュアリティ)こそが日本的であったとしても、分かりやすさ・正解を求める時代では二者択一的になりやすいのも事実であり、これは時代の流れもあるように思う。とはいえ重要なのは、それが正しいかどうかではなく、そういう多様性を許容・または留意できるかということが、より重要だと感じる。言い換えれば「余裕」といってもよいが、私から見ると逆に今の日本には、そういう「余裕」がそもそも最も足りないのではないかと感じる。そういう意味では「江戸」の方が、余裕があったのではないだろうか。

抄録

2-3

田中 そう、『昭和問答』といっても、年号としての昭和(一九二六~一九八九年)の六四年のみを対象にしようというんじゃない。金融恐慌から始まって満州事変、日中戦争、太平洋戦争、原爆投下、GHQ(連合軍総司令部)による占領、高度経済成長といった昭和の出来事は、その因果の「因」が日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦とその後の好景気にあるのであって、昭和だけを切り離して考えることはできません。

松岡 それに、昭和の終焉は、東西冷戦の終結から始まり長期の不況と低迷にあえいだ平成(一九八九~二〇一九年)時代の幕あけでもあったでしょう。それが民主党政権とアベノミクスを挟んでこの令和の時代までつづいているわけです。-/-

3

『昭和問答』がそのように長い期間を扱うことには、もうひとつの理由があります。それは『日本問答』『江戸問答』で生まれた問いが、今日でもなお問いつづけるべき問題だからです。-/-(田中)

4

-/-『昭和問答』でひきつづき語りたいことのひとつがここにあります。つまり、「私たちはなぜ競争から降りられないのか ?」という問題です。(田中)