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ルポ もう学校にはいられない

書誌

text唯野
author吉岡忍
publisher朝日文庫
year1993
price530
isbn2-260755-6

目次

1感想
2抄録

履歴

1998-1998読了
1999.4.18公開
2002.4.9修正

感想

本書がユニークなのは、タイトルにもある「もう学校にはいられ」なくなったのが、生徒なのではなくて先生の側なのだという点である。つまり、本書は現代の学校の抱える問題を「先生の病」とでもいうべき観点から捉えたルポルタージュ作品となっているのだ。考えてみれば、現代の学校があれだけの問題を抱えているのであれば、そのしわ寄せが生徒だけではなく、教師の側にまで及ぶであろうことは自明である。それゆえ、本書で語られる「教師」ではなくなった「一人の人間」として発せられる言葉の数々は、「よい子」からの逸脱がない「教師」として発せられる言葉よりも、非常に強いリアリティを持って読み手に迫ってくるものとなっている。

抄録

14

-/-しかし、どう考えてもこれでは当の生徒の具体的なイメージは浮かんでこない。目立たず、中の上くらいの成績で、みんなと仲よくやっている生徒といえば、一クラスで十人はいるだろう。これらに加えて、性格が明るく、活発な、負けずぎらいの、ひっこみ思案の、おとなしい、何という科目が得意な、といった形容句をそろえれば、何十人でも何百人でも説明できるにちがいない。むろんそれは、何も説明したことにはならないのだが。-/-ある生徒の像を描いてみせるとき、教師がどんな言葉と口調を持っているか。-/-つきなみな形容句に頼らない教師だけが、子どもとのきちんとした関係を結ぶことができるのだ、と。

16

学校教育についてはまったく門外漢の私が、教師との話題を設計しようとするとき、もっとも基本となるのは、この教育的環境のなかにおける、ともに被教育者である、ということにほかならない。-/-

これは同感である。そして、私も自分でこれが分かったのは大学生活も後半になってからだった。それまでは私も「大学にいる間のうちに自分の知りたいことはみんな今のうちに知っておかなければならない」という一種の強迫観念のようなものがあった。それは大学が最高学府だからという意味での先入観に基づくものだったのだろうが、非常に馬鹿馬鹿しいことだったと今では思う。世の中、分からないことはいくらでもあるし、「教壇に立つ側だからどんな質問にでも答えられなければならない」ということ自体が一種の幻想なのではないかと思う。

18-19/21

「目の輝き」のような言いまわしで授業などを表現することが多い現在の日本の教育界。そして、そういった言葉が一般化したときにもたらされる「何となく納得」することで議論の終わってしまう姿。つまりは、自分や生徒を情緒的にだけ見ようとする教師への危惧感ということ。

23-24

襲い、殺し、重傷を負わせることをためらわないのは、浮浪者を、汚い、と感じる清潔な環境に育ち、葛藤や困窮をひたすら押しかくす平和で幸福な家庭しか知らない、やさしい子供たちのほうなのだ。

しかし、今日、浮浪者を汚いと感じ、異物として排除し、ときには抹殺しさえする感覚は、日本人の大半のものではないのか。-/-ひっとしたらおとなである自分の不安や欲求不満のあらわれであるかもしれないことに気づこうとせず、対面外面をとりつくろうことで、葛藤や困難を避けてしまう親たち。

28

教育取材をやっていると、その社会の原初形態が分かる。学校から、その社会の成り立ちや過程、典型がよく分かる。

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