書物巡礼記
書誌
| text | 唯野 |
| author | 森本哲郎 |
| publisher | 文化出版局 |
| year | 1985 |
| price | 1,900 |
| isbn | 579-30241-9 |
履歴
| 2001.5.11 | 読了 |
| 2001.5.14 | 公開 |
| 2002.4.9 | 修正 |
感想
私は大学時代などに友人から「どういう選択肢で本を選んでいるのか」といわれたことが幾度かある。しかし、いかにはたから見て無関係な書架の並び、本の読み方に見えようとも、そこには私なりの基準なり尺度が存在している。むしろ、一見して無関係ともいえる本が読み手の中において特別なつながりを持っているのだとすれば、それこそが他の誰にもない自分だけの精神世界といえるのではないかと思う。
とまあ、唐突にこんなことを書いたのにはもちろん理由がある。本書における「巡礼」とはまさしくこのことをいっているのであり、「まえがき」において著者は同様のことをいっているからだ。
では、その動機は何なのだろう。知人からすすめられて、ということもあろう。知識を得たいという欲求にかられて、ということもある。ふと興に誘われて、あるいは何気なく本を手にする、ということも多かろう。退屈をもてあましたあげく、という場合だってある。本を読む動機も千差万別といってよい。が、たとえどのようなきっかけからであっても、その人の読む本は、例外なしにその人が
選んだ 書物であることはたしかだ。そう、本を 読む ということは、本を選ぶ ということなのである。手あたりしだい乱読するという読みかたをする人がいないわけではない。どちらかといえば私もそれに近い。けれど、乱読のつみ重ねのように思えるわが読書遍歴をふりかえってみても、自分が手にしてきた書物は、一見、相互にまったく無関係のようでありながら、じつは、どこかで不思議な因縁のように脈絡を通じ合っている。(p.5-6 cf.35)
ひとつの本との出会いが別の本への橋渡しとなる――これこそが読書の持つ奥深さのひとつであり楽しさのはずである。かくいう本書だって、古本屋を通じ定価以上の代価を払って手に入れた本だ。むろん、値段に納得できるだけの著者と書名、そして縁があったからこそ、今、この本が机の上にあるわけである。本当の本好きならば「本についての本」だって好きで当り前。本書もそういう一冊だろう。
抄録
17
ある詩句に深く感銘するその理由は、自分にもよくわからないものである。詩は納得するものではなく、感じとるものだからである。-/-
21
わずか五文字で読書の真髄をズバリ言ってのけた大いに傾聴すべき読書論もある。つぎの聯である。
讀書不用多 書を読むも多きを用いず
作詩不須工 詩を作るも工(たく)みなるを須いず書物というものは多く読めばいいというものではない。詩もうまくつくろうなんて思わない方がよろしい、というわけだ。「書を読むも多きを用いず」とは、まことに至言ではないか。とかく読書家は一冊でも多くの本を読もうとする。本を多く読めば読むほど教養は高まり、見識は身につくと、そう思っているからである。だが、蘇東坡は多読は無意味だと喝破する。彼はそのわけを説いていないが、つぎからつぎへといろいろな本を読もうとすれば、とうぜん一冊、一冊を精読できなくなるというのであろう。私自身の経験に微しても、たしかにそうだ。何をそんなにあわてて読むことがあろう。それよりも一冊、一冊をゆっくりと精読するほうが、どれほど心の糧となることか。書物は精読するためにある。速読ですますことのできるような本は、本といえないのだ。(cf.86)
のっけから随分と耳に痛いお言葉である。まあ、確かに正しいのだから仕方がない。しかし、分かっていながらそうもいかないというのが、悲しいかな小人の性である。まあ、これでも読書ノートをつけることで何かしらの感じた部分に関しては少なくとも二度読みをしているはずなのだが、読書量に頭の賢さが比例するわけでもなく(むしろ逆という話もある :-))、時間ができればできたで他愛のないことにうつつを抜かすのが関の山であろうから、私はとっくに観念している。
まあ、それはそれとして、最近は私も漢詩を少しかじっている。この年になってようやく詩をたしなむようになったのは前進というべきなのか...
26
そんなところで、私はいったい何を読んでいるのか。『蕪村俳句集』なのである。私がどこへ旅するときにも必ず携えて行く一冊の本とは、じつは、この一冊なのだ。砂漠にまで、と私はいったが、蕪村の俳句集は砂漠でこそその真価を存分に発揮するといっていい。というのは、砂漠は蕪村の詩境とはまるで無縁な、というより対極の世界だからだ。
この一節を読んでドキッとさせられたのは「果たして、自分にはそれだけの自分だけの一冊というものがあるのだろうか」と考えたからである。そして、恐らくはないだろうと認めざるを得なかったからである。
30
読書という行為は、まだ字をおぼえぬ幼児のころに、絵本とともに始まる。絵本の絵は文字以上に幼い魂に語りかける。やがて字を知るようになると、絵本は童話にかわり、しだいに文字の世界に入って行くようになる。しかし、人間が真に読書の出発点に立つのは、生れて初めて、自分なりに読んだ本が自分を深く感動させたときである。その感動、その共感が、その人間の生涯にわたる読書のエネルギー源となるのだ。-/-
38
私もそう思う。人生とは本を読むことと、じつによく似ているのである。どんな人間も人生を歩みながら「自分」を読みつづけ、世界を了解し、そして?自叙伝?を書いてゆく。人生はまさしく読書であり、その逆も真である。すなわち、読書とは人生そのものといってよい。したがって、読書の要諦とは、そこにおのれの人生を読むことなのである。
これこそが誰でも自分の人生についてを書く限りにおいて、1 冊は本を書くことができる――といわれる所以であろう。
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