親鸞 (全4冊)
書誌
| text | 唯野 |
| author | 丹羽文雄 |
| publisher | 新潮文庫 |
| year | 1981 |
| price | 400 |
| isbn | 4-10-101714-X |
履歴
| ? | 読了 |
| 2010.4.27 | 公開 |
感想
浄土真宗の開祖である親鸞の一生を扱った小説。語り口が三人称なので、三人称的自伝というか、現代的伝記といった感じである。しかし、全四冊と大部は大部である。解説にも「すでに知られているように、丹羽文雄は三重県四日市の浄土真宗高田専修寺派崇顕寺に生まれ、早稲田大学を卒業した直後帰郷して自らも僧籍にあった。」とあるように(四巻 p496)、著者自身としても避けては通ることのできないテーマ性を持った作品ということになると思う。
ただ、内容的にはそれほど強く宗教色のあるものではない。著者自身による親鸞という人物への脚色はあるものの、それも必要限度という感じであり、全般的には淡々とその足跡を追っているという感が強い。逆にいうと浄土真宗の入門書的な捉え方のできる本だと思う。
# 読んだのが非常に昔でいつなのかはっきりしません...
抄録(一巻)
174-175
頼朝の勅令発布の要請がきこえると、中央貴族は胸をなでおろした。自分らのために頼朝が、正しい主張をしてくれたからである。そのためいっそう義仲の評判が悪くなった。
挙兵当時、頼朝のことを何も知らなかった九条兼実は、はじめの内は謀反の賊、兇賊と呼んでいたが、手の裏をかえしたように、
「頼朝のていたらく、威勢厳粛、其の性強烈、成敗文明、理非断決」
口をきわめて褒めるようになった。
頼朝の提案は、院政側にただちにうけ入れられたが、
「北陸道は、手をつけない方がよい。それではあまりに義仲殿をないがしろにすることになる」
北陸道は一時除外されることになった。
「東海、東山両道の国衙領、荘園の年貢は、国司、本所のもとに進上せよ。もしこれに従わぬものがあれば、頼朝に連絡して、命令を実行すべし」
頼朝の注文どおりの勅命が、宣旨として公布された。同時に、頼朝は勅勘を解除された。宣旨が実際的な効果をあげるには、いうことをきかないものを武力で罰するという裏打が必要であった。だれがその土地の正当な所有者であるかを認定し、争いがおこればそれを裁決する。それに従わぬものは武力を用いても強制する。その大きな権限が頼朝にあたえられることになった。
挙兵以来、頼朝は以仁王の命旨をふりかざしていたが、すでに以仁王の亡くなっているのは、天下周知のことであった。以仁王の命旨は、万能の切り札ではなかった。たとえまたその命旨が権威をもっていたとしても、それは頼朝ひとりのものでなく、義仲も、行家も、甲斐源氏も、みな同等の錦の御旗であった。頼朝は、自分ひとりだけの錦の御旗がほしかった。
186 cf.199、二巻 242
平家一門は、なお瀬戸内海一帯の制海権を握っていた。頼朝をはじめ、義経を総指揮官として、海上が平穏になる六月ごろに戦闘開始を計画していた。が、京に駐在している義経と頼朝は、何かにつけて意思の疎通をかくことが多かった。しきりに義経を登用する法皇の動きも、頼朝の気にいらなかった。それがはっきり形をとりはじめたのが、自分の推薦もなしに義経が検非違使となったことであった。
216 cf.220
頼朝は、その意見に従い、義経、行家の急追討を避けて、政治的な方法をとることになった。
諸国に守護を定め、公領荘園の別をとわず、一般に地頭をおくというのであった。その際、守護、地頭には、源氏の家人(けにん)を当てる。このことは、東国はもちろんのこと、頼朝が全国の総地頭の位置について、全国を支配することを意味した。義経追討を口実に、頼朝は全国支配の基礎をつくろうとした。
362
しかし、口で称えるだけの念仏が、どうして金と暇にあかした貴族の行と匹敵するのか。果して口称念仏だけで、往生が可能なのか。これは当然おこってくる庶民の疑問であった。
法然が、それに答えた。
「大無量寿経」の四十八願中の第十八願には、念仏するものを救うことを仏がすでに誓っているというのだった。「順彼仏願故」である。
空也が念仏をひろめてから法然に至るまでに、約二百年がかかっていた。それというのも、信仰というものが理論的に発展するものではないからであった。人間のひとつひとつの体験のつみかさねで、生れるものであった。
念仏に対する人々の考え方も、二百年後にはそこまで賢くなったということが出来る。
380-381 cf.372/二巻 125
範宴(はんねん、後の親鸞:唯野注)の浄土教に対する学問は、次第に系統立ってきた。その頭の中には、六人の名僧知識が頭をならべるようになった。印度の竜樹と天親であり、中国の曇鸞、道綽、善導であり、日本では源信であった。
竜樹は、釈迦の死後六、七百年後のひとであった。竜樹は大乗仏教をおこした。
天親は、五世紀ごろの北印度に生れた。世親ともいった。はじめ小乗を学んで、「倶舎論」をあらわし、兄の無著にすすめられて、大乗に帰した。「浄土論」をはじめ諸経の注釈や、唯識、仏性等の論をあらわし、著作が多いので、世に千部の論師といわれた。
曇鸞は、北魏代のひとで、雁門に生れ、五台山に出家して四論をまなび、のち陶弘景から仙教を得ての帰途、菩提流支に遭って、観無量寿経を授かった。それで仙教をすてて浄土教に帰した。魏王の尊崇をうけて、大厳寺、玄中寺(山西省)等に住した。
道綽は、涅槃宗の学匠であったが、玄中寺の曇鸞の論文を読んで、浄土教に帰した。「安楽集」二巻を著した。
善導は、唐の高僧であった。道綽禅師について浄土教を究め、一心に念仏を唱え、寒冷の季節でもなお汗をながしたといわれた。慧遠、曇鸞、道綽等は浄土教をひろめるように努力したが、教法の綱領を組織して、法門の弘通(ぐつう)に効果をあたえることは出来なかった。善導によって、ようやくそれに成功することが出来た。-/-
法然が目下さかんにひろめている浄土宗は、善導のながれを継承したものであった。-/-
源信は大極殿の千僧読経の講師となったが、弟子の厳久にそれをゆずって、少僧都に任ぜられた。しかしそれも自分ののぞみではなかったので、官を辞して、横川に隠居した。恵心僧都と号した。
源信は、永観二年(九八四)に「往生要集」の撰述にとりかかり、翌年それを完成させた。これは日本における浄土教の礎石となるものであり、往生極楽に関する経論の要文をあつめ、往生の要行は念仏にあると述べたものであった。
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