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ルポルタージュを書く

書誌

text唯野
author鎌田慧
publisher同時代ライブラリー
year1992
price800
isbn0-260126-9

目次

1感想
2抄録

履歴

2002読了
2003.1.1公開
2003.1.29修正

感想

鎌田慧のルポ作品というよりは、ルポルタージュそのものを扱ったメタルポルタージュ(なんて言葉があるとは思えないが :-))作品である。個人的にルポルタージュの方法論というのは、かなりルポライターによって幅のありそうな印象を持っているが、遠回りに見えそうなところから取材を行っていく著者のやり方は興味深かった。また、そうでなくとも鎌田慧自身によるルポルタージュ観というべきものの透けて見える部分もあり考えさせられる点が多かった。

抄録

7

いまや出版界では、ルポルタージュやドキュメンタリーは一種の「死語」となり、「ノンフィクション」という名の耳ざわりのいいものに姿を変え、批判と変革の志を喪失したものになりつつある。

ルポルタージュは、たんに情報を伝達したり、話題を提供するだけのものではない。過去の事件や現代の人間を描いたりしながらも、けっしてそれで完結するものではなく、現代をテコにしながら、未来をこじあけるものでなければならない。これまでのすぐれた作品は、たいがい歴史に参加しながら、着実に現代の読者に読みつがれてきた。-/-

創刊ラッシュに出没する新雑誌のテーマが「どのように生きるか」ではなく「どう生活するか」が中心になっているように、ライターたちもまた、「何故、なにを書くのか」を自己に問いかけることなく、「どう書くか」に腐心しているようにみえる。cf.168-169

10-12/18/19

日本のルポルタージュに影響を与えている明治以来の記録文学・プロレタリア文学、大宅壮一、アメリカのニュージャーナリズムという 3 つの流れについて。大宅壮一はマルキシズムの影響からプロレタリア文学を歩んだ人だが、マスコミ界に君臨しても反骨の精神があった。しかし、その弟子たちには反骨のかけらもなくなってしまった。

また、最近の作品におけるパターン化という傾向、感動的な作品によって逆に現実が見えないことへの不満、ドキュメンタリーなどがあるがままに取材しただけの安易なものになりつつあることについて。cf.51/112

17

だいたい冤罪事件はみなそうで、ぼくが前に書いた『弘前大学教授夫人殺人事件』(講談社文庫)というのも、これも冤罪がはっきりして、いま国家賠償の裁判をやっていますけど、これも取材にいった四、五年前は、あいつがやったにちがいないっていうふうに近所のひとたちがいっていました。一度レッテルをはられると、それをくつがえすにはものすごく時間がかかるんです。そういうイメージは、やっぱり警察の発表を鵜呑みにした新聞に増幅されました。だから、新聞の責任は多きいんですね。

22/24/27

ところが、なぜ、自分がその問題にこだわるのか、そこのところをはっきりしないまま、商品生産の波に乗っていることに、なんら疑問を感じないまま仕事をつづけているひとたちがふえているように思われます。

つまりは、なぜ書くのかということの明確化。または欲がない、商品化にすぐ向うため中途半端で成長するところのない点について。

26/39

つまり取材とは、きいてみたいことをきく、それも、むしろ堂々ときいたほうがいいんですね。ききたいことをきちっときいたほうが、かえって相手との信頼関係ができる。それはケースバイケースで違うこともあるですけど、原則的にはそうです。自分の意見もいって、きちんとむき合ってきけばいいんです。あとは、読むひとがわかるように書けばいい。話をきいて感動したり発見したことが、読み手に伝わるように化けばいい。それに尽きるんですね。cf.71

取材の方法にハウツーはないということ。cf.25

このように、ひとつひとつを切りひらいていくと、次から次へといろんな事実・疑問・関心がひろがってくるのが、ルポルタージュの面白さなんです。ところが、いまそういうように重層的にやっていこうというひとは、あまりいないようです。現在をクローズアップして捉えようと思うと、当然、過去の歴史にさかのぼりますが、いまあるほとんどが、現在は現在だけの、繁栄なら繁栄の状況、科学技術なら科学技術の状況で終わり、昔のことは昔話で切れてしまっているのですね。それを両方つないでいかないと、これから先の道はあらわれないと思うのです。cf.35/169/171

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