旅のラゴス
書誌
| text | 唯野 |
| author | 筒井康隆 |
| publisher | 新潮文庫 |
| year | 1994 |
| price | 438+tax |
| isbn | 10-117131-9 |
履歴
| 2003.6.11 | 読了 |
| 2003.10.27 | 公開 |
| 2003.11.6 | 修正 |
感想
実は今年は一時期に筒井康隆をまとめ読みした。高校時代にだいたいを読んでからというもの、断筆宣言以降はあまり文庫での新作も見かけなかったため、割とそれきりになっていたのである。とはいえ、私の高校時代の読書から筒井康隆を外すことはできないし、実際、私がペンネーム的に用いている「唯野」も勘のよい方ならばお気付きの通り、氏の『文学部唯野教授』から来ていることは公然の事実(?)である。
そんなわけで新刊書店の文庫の棚を眺めていたら、知らぬ間に随分と見知らぬ作品が並んでおり「そういえばしばらく読んでないな」というわけで新潮文庫の近作を通読したという次第である。
そして、ざっと読んだ結論からいうと、一番おもしろかったのは で、次が本作だった。『朝のガスパール』は朝日新聞連載時に読んでいたから除くとして(これはこれでおもしろい試みだとは思う。だいたい、新聞小説で私がまともに読んだのは後にも先にもこれきりである)、既に読書ノートで取り上げた <lnk lautrec|『ロートレック荘事件』> は並、いまいちだったのが <lnk bamen>『家族場面』、『最後の伝令』といったところだった。
本書は一生を旅に費やしたラゴスという人の遍歴を綴ったものだが、主人公の数奇な運命はもとより、結果的に全てが通過点として記述されることになる時の流れ、極めて限定的に SF チックな世界、乾いたユーモアなどの点で、うまくはいえないが得がたいバランス感覚を持つ作品だと思う。特に乾いたユーモアというのは氏一流のドタバタ劇が登場するわけではないのにもかかわらず、思わず笑いがこぼれてしまうような機転の効いた愉快さとでもいうべき点を指している。
一読して氏の他の作品とは一線を画していること、それでいて綿密に計算されたとしか思えない世界が眼前に広げられること。久々に何が出てくるのかをわくわくしながら読んだ一冊だった。
# 一言でいうと「ラゴスの旅」ではなく「旅のラゴス」なのだということである。
抄録
26
「ヨーマには、ひとの心が見え過ぎるのよ。本当はとてもやさしいんだけど、やさしすぎて、自分を悪く思っているひとをひどく気にするの」と、デーデは言った。「いちばん仲良くしていた友達と喧嘩して怪我をさせたのが始まりだった」
してみればデーデにもひとの心がわかるのだろう、とおれは思った。「人間は心の中では、ずいぶんとんでもないことや、ひどいことを考えるからな。それがまともにわかったのではちょっとやりきれないだろうな」おれたちは村へ戻りはじめた。
37-38
「そのことか」彼はぐるりと酒場中を見渡しながら気軽に言った。「おれにいわゆる読心能力といったものはない。ただ、相手の心に浮かんでいるイメージだけはなんとなくつかめるんだよ」
51
「あれが精神修養と言えるのかねえ。壁を抜けたいという欲望をふくれあがらせるわけだ。そのためには常に空腹でなきゃあならなかった。壁の向こうにたとえば食いものがある。それを食いたいという切実な欲望でもって壁を抜けるのさ。修行中は実際、壁の向こうに食いものを置いたりした。今じゃ想像するだけでいい」
121-122
四ヵ月後、おれは歴史と伝記に読み耽っていた。年代を追って史書を読み、各時代への理解を深めるため、それぞれの時代における重要人物の伝記はその時代の歴史に並行して読むという方法が、なんとぜいたくな、そして愉悦に満ちたものであったかは、かくも大量の書物に取り囲まれているおれにしかわからず、実際おれにしか体験できぬものであったろう。それはまた歴史理解の最も効果的な方法であったとおれは確信している。それにしてもかの星における歴史は長く、複雑でもあった。いつ読み終えるかしれぬそれらの歴史をおれは散歩する暇さえ惜しんで読み続けた。といっても、焦燥とは無縁だった。かくも厖大な歴史の時間に比べればおれの一生の時間など焦ろうが怠けようがどうせ微微たるものに過ぎないことが、おれにはわかってきたからである。人間はただその一生のうち、自分に最も適していて最もやりたいと思うことに可能な限りの時間を充(あ)てさえすればそれでいい筈だ。cf.123/159
177-178
しかし、さすがに十五年間の読書生活はそれなりの強靭さをわたしに齎(もたら)していた。それは他ならぬその十五年間の読書生活が、たった羊皮紙二百枚に集約され、それが失われたならすべて無に帰すようなものでしかなかったのかという反省から始まった。だとすれば、いったい何のための十五年間だったのだ。その十五年のうちにお前は、人間の生み出した知の遺産が、十五年どころか、ひとりの人間が一生かかろうが、二生、三生かかろうが学びきれぬほど膨大なものであることを身にしみて悟ったのではなかったのか。なのに、今のその、うつけた様子は何ごとだ。-/-
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