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丸亀日記

書誌

text唯野
author藤原新也
publisher朝日文庫
year1993
price480
isbn4-02-264011-1

目次

1感想
2抄録

履歴

2008.1.18読了
2010.5.18公開

感想

氏の旅行記というよりはエッセイである。評論家っぽくないところがいいとは思うのだが、やはりそうならざるを得ないというか、そういうのを避けようとしているけれどもそうなってしまっているというか、そんな雰囲気の強い本である。うまくいえないのだが、そういう本。

抄録

17-18

近世ヨーロッパの莫大な富の蓄積の中からバカンス(レジャーではない)という言葉が生まれたように、限られた時を生きる生き物にとって真の優雅とは無為な時間そのものを愛で楽しむことである。

36

けもの道は山野などの自然の中にあるものとも限らない。それをけもの道と呼ぶべきかどうかわからないが、私は都市の中にもけもの道があると思っている。もし人間をけものの類に数えるとするなら、誰でも自分の胸に手を当てて考えればわかることだが、人が街を歩くとき、その行動範囲及びルートは案外固定しているものだ。人は住み慣れた街の中におのれのけもの道を作っているのである。

66 cf.205

つまり、ある風土の中においては、人間これ全身刺となり、多大な攻撃精神とエネルギーを持つことが悟れる者として崇められることもあるのだ。

78-79/79-80

私は世界各国で生活してきていつも感じるのだが、この日本ほどコマーシャリズムというものが政治経済は言うに及ばず、文化やその他のこまごました人間の日常生活一般にまで介入している国は珍しい。当然私のようなかたちで表現活動を営む者もコマーシャリズムと関わりなしに仕事をすることはできない仕組みになっている。それを完全に拒絶したいなら沼の底に潜って本当の亀になるより仕方がない。表現活動を営む者にはどこまでそれを許容し、どこまでそれをガードすべきかという微妙なバランス感覚が求められる時代である。

日本でこういう発想をすると、えらく禁欲的に聞こえるようなところがあるが、人間としてはごく自然な考えかたである。たとえば早くからコマーシャリズムの洗礼を受けているアメリカでは、その商品を使っていない人が、その商品の宣伝をすることは禁じられている。またかりに彼が有名であろうとなかろうとコマーシャルに顔を出すタレントは下衆だと考えられているのである。ましてや知識人がお金をもらって企業商品の販売促進にあたるということは考えられない。

たまに欧米の有名タレントや知識人が日本の企業の広告に顔を出していることがあるが、そのような場合、契約の際その広告を自分の国まで持ち込まぬこと、という条項が盛られている場合が多い。自分の国で発表されると恥になるからである。ということは彼らは日本という国の国民に自分がいかに思われようとどうでもいいと思っているわけだ。

117

その「間」つまり「無」の状態はなにも覚者のみでなく私たちも日常の中に経験している。煩雑な情報に取り囲まれた現代人は、おそらく一日に何百という情報にかかわる思考を連続的につむいでいるわけだが、ここで留意すべきことはひとつの思考がひとつの思考に移る間には瞬間的ではあっても何も考えない時間、つまり「無」の状態が必ず介在しているということである。

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