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大都会隠居術

書誌

text唯野
author荒俣宏(編)
publisher光文社文庫
year1996
price680
isbn4-334-72320-9

目次

1感想
2抄録

履歴

2007.09.21読了
2011.11.20公開

感想

まずいっておくと本書は序文が秀逸である。「隠居」という言葉をネガティブにではなくポジティブにとらえた説明がされている。その上で、そのための教則本(?)とすべく、その後に過去の文人たちの著作を列記する――という体裁になっている。正直なところ、私には早過ぎる本だと思ったが、読み応えは十分あった。人生を終わりから逆算して考えるというのも、ひとつの生き方、見方には相違あるまい。

抄録

13

老人になるとは、要するに心朽ちることであります。

世のありさまの裏おもてをすべて知りつくし、もはやいかなる対象に対しても青春の活きいきとした夢を託さぬことであります。現世のあらゆる部分で実行されている厳密なルールをもった人生ゲームから、あっさり降りてしまうことであります。

そして、

そのあとにようやく心静かな自由が訪れる。生きながら死んでいることの喜ばしさよ。まるで、浮世のわずらいから解き放たれた幸福な魂のように。

13-14

いやそれどころか、わが日本では、自らすすんで心朽ちた老いの境地に至るための習俗があったのであります。何を隠そう、これすなわち、

隠居

であります。

隠居なることばの意味は、伝統的には、家督を子孫に譲って自ら第一線をしりぞくことと解されるようであります。世に隠れて暮らすのですから、社会的には、文字どおり「生きている死者」となるわけです。しかし封建社会にあっては、むしろ、老境に達したから身を引くというのではなく、次世代の成長をもって自らは現世を脱し、「次の人生」にはいることを意味していたのです。つまり、「定年」による隠居ではなく、あとの憂いがなくなったところで次の人生にチャレンジしていく、というような積極的姿勢に立つ引退であります。その意味では、かつての隠居は、子育てが終わり、さてこれからが人生本番と、キラキラ輝いている中年婦人たちの姿に近かったわけであります。換言すれば、社会生活を営むよりも上に、もう一つ別の「生きざま」があったことになります。中国風にいえば、仙人になる道、企業でいえば、相談役か顧問、アカデミズムでいえば名誉教授。名称は何でもよろしいが、隠居は文字どおり解放を意味していたのです。

しかしこう書けば、なんだ隠居というのは要するに社会からのドロップアウトじゃないか、とつぶやかれる向きもありましょう。

そのとおりです。-/-

15

このお化けの楽園たる都会においては、若さと力とも兼ねそなえた者向けにつくられた都会においては、若さと力を自ら放棄し?老人?を宣言した都会の隠居となることによって、われわれのごとき凡夫は、人生ゲームを傍観できる立場に立てるのであります。これは逆説的真理といえましょう。なぜなら、老人となり隠居暮らしにはいることで、「わがまま」や「贅沢」の定義が一気に変わり、凡夫にさえ入手できるものとなるからであります。

これぞ錬金術であります。救済であります。編者は今、古今の文学を探り、そのような錬金術を可能にさせる都会隠居術のあり方を示そうと考える所以であります。

20 cf.156

まず思い切って、親兄弟、妻子を捨ててみること、現在の仕事や地位を捨て去ること。

これができぬようでは、立派な都会の隠居になれないのであります。それがために多くの人々は涙ぐましい努力をし、わざと冷淡な小悪人ぶってみるのでありますが、実は、妻子や仕事を捨てる方策には案外に簡単なものが存在いたします。

それは「逃げること」です。賭博でも趣味でも、何でもよろしいから、自分だけの娯(たの)しみに逃げこんで、周囲には一切関心を向けないこと。これぞ妻子泣かせの贅沢であります。

38 cf.42

-/-それより一層痛切に尾の必要を感じるのは、訪客の相手をさせられる時である。客嫌いの私は余程気の合った同士とか、敬愛している友達とかに久振で会うような場合を除いて、めったに自分の方から喜んで人に面接することはなく、大概いつもいやいや会うのであるから、用談の時は別として、漫然たる雑談の相手をしていると、十分か十五分もすれば溜らなく飽きて来る。で、自然此方は聞き役になって客が一人でしゃべることになり、私の方はともすると遠く談話の主題から離れてあらぬ方へ憧れて行き、客を全く置き去りにして勝手気儘な空想を追いかけたり、ついさっき迄書いていた創作の世界へ飛んで行ったりする。-/- (谷崎潤一郎「客ぎらい」より、旧字と仮名遣いは改めた:唯野注)

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