半眼訥訥
書誌
| text | 唯野 |
| author | 高村薫 |
| publisher | 文春文庫 |
| year | 2003 |
| price | 495+tax |
| isbn | 4-16-761602-5 |
履歴
| 2008.9.30 | 読了 |
| 2011.02.25 | 公開 |
| 2011.02.27 | 修正 |
感想
高村薫の同時代に向けた文章の数々をまとめた本だが非常に読み応えがある。単なる情報であるとか傾向であるとか方法ではなくて、ここには確かに思索なり考えがあるな、ということが読むとよく分かる。住宅関係の指摘も同感できるものが多かった。下手な評論家よりも論旨は鋭いのではないだろうか。
抄録
13 cf.14
これはどうやら真の話らしい。海岸線がすべて企業の私有地ないし港湾局の管理地になっているのは大阪と同じだが、違いは閉じているか否かである。東京はすべての出入口が閉じられていて、大阪はほとんど開いているのである。
17 cf.18
他社に作れない物を単品で受注生産するため、必要な機械化はされているが基本的に手作りである。しかし、受注から原材料の発注、納品期日に合わせた各工程の進捗管理まで、すべてコンピューターで管理されている。現場の生産は手作りだが、営業や工程管理などの分野は徹底的に合理化が図られ、無駄がない。
26/27
思うに、この現代の社会ではわたくしたちが働かせる想像力の大半は、知識と情報の織物であって、そこに身体の実感が伴わない場合が多いものだ。
現実と虚構がいつでも入れ替わり得る意識の前で、絶対の現実である身体が消えてしまった結果、イメージだけがどこまでも一人歩きするというのは、たとえば経済がそうである。
またたとえば、核兵器はもちろんのこと毒ガスや生物兵器や対人地雷を今なお戦略的に有効と考えている人たちは、刃物で人を傷つけるときの感触を知らないに違いないし、さぞかし人間の死に対する実感は希薄なのだろうと考えられる。
29-30 cf.195/282
誰もかれもがヒステリックなまでに情報に固執し、情報を持たないことを恐れる今の時代、たしかに情報の不足が即、日常の不安や不便につながってくることはある。天気予報がなければ空模様が分からないし、母親は、育児書なしには授乳の仕方も分からない。お上は、情報なしには国家の道筋一つ決められず、理念や信念といったものさえ、今や情報が左右する。
こうした情報への全面依存社会は、科学技術の進歩がもたらしたものだが、思えばかつて人間を思索に誘った生命の神秘は今日ではタンパク質のレベルに還元されてしまい、宇宙の神秘は物質の質量やエネルギーの話に、男女の性は遺伝子や脳梁の話に置き換えられるようになって、何もかもが記述可能な情報となりつつある。そうしてわたくしたちの頭といえば、ほとんどデータベース状態と化しているのである。
また同時に、そこに収まり切れないものは、わたくしたちの頭が受けつけなくなっているということも、あるかも知れない。その結果、美術は凡百のあいまいな美術体験を排するべく意味や様式の破壊を目指し、小説は、あいまい過ぎる個人を離れて神話や抽象を目指す。椅子一脚を台座に据えて、それをたとえば「憂鬱」と命名する造形表現の世界があり、小説では、水の入ったコップ一つから世界の悪意を引き出すような描写の世界が紡ぎだされるといった具合である。
わたくしたちの頭は、大量のデータを蓄積し、プログラム次第でどんなふうな意味体系も作り出す怪物になっている。椅子やコップという記号を処理するプログラムが一人ひとり異なっているゆえに、椅子=憂鬱といった表現が現れ、それは他人にはまったく理解出来ない。また、それでもいっこうに差し支えないというのが、現代である。
33/34
結論から言えば、わたくしが周囲を見ている限りでは、年代が若くなればなるほど、コンピューターゲームはもはや、明らかに快楽なのだと感じられる。-/-
思うに、コンピューターゲームの著しい特徴は、他者の存在を積極的に消し去ったことだろう。これまで、人は他者を前にして初めて自分の身体を含めた世界の広がりを確認してきたのだが、コンピューターゲームは、他者を消し、自分の身体をも消すことによって、まったく新しい空間の発見と快適さを人間に教えてしまったようである。
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