馮道
乱世の宰相
書誌
| text | 唯野 |
| author | 礪波護 |
| publisher | 中公文庫 |
| year | 1988 |
| price | 450 |
| isbn | 12-201502-2 |
履歴
| 2001.12.29 | 読了 |
| 2002.2.10 | 公開 |
| 2002.6.16 | 修正 |
感想
馮道(ふうどう、字は可道)というのは中国の五代十国時代に五朝八姓十一の天子に宰相として仕えた人である。乱世にあって王朝の興亡が激しかったことを考えると、これは極めて珍しいケースであり、その人間に興味が集まるのも無理からぬところではある。しかし、当の中国においても、その評価は真っ二つに分かれていた。例えば「二君のみならず節操なく主君を変えた不忠の臣」というのが司馬光(『資治通鑑』の著者)の見方だとすれば、「乱世にあって民のために戦争を極力回避した人物」というのが李卓吾(陽明学左派の思想家)という具合である。
本書の著者は「司馬光の評価は治世における臣の評価というべきで、乱世において同じ理屈が通じるだろうか ?」という意味で、どちらかといえば馮道に対して肯定的な見方をしている。私も一読してみての感想はこれにほぼ同じだが、それ以外にも本書は単なる伝記ではなく唐末の社会の混乱の原因、宋王朝に至る通史としても読むことができ、なかなかの好著だと思う。(実際問題としても五代十国時代を身近にさせてくれる本というもの自体あまりないと思うからだ。)
抄録
12
馮道は唐朝末期、僖宗(きそう)時代の中和二年(882)に河北の現在でいえば北京のおよそ南に 180km のところで生まれた。
14-23/31-35
唐末の社会に目を向けるためには、まず中期に起った安祿山・史思明の乱まで遡る必要がある。安祿山(平慮・范楊・河東の三節度使を兼任)の乱は時の宰相、楊国忠との相克より起ったものだが、このとき書家としても有名な顔真卿(平原太守)らが、これに反抗して挙兵する。このとき史思明の前に苦戦を余儀なくされていた顔真卿を助けたのが清河の李萼(りがく)という人物で、平原と清河の連合軍が成立したことによって戦局を挽回し、同じ頃、郭子儀(かくしぎ)・李光弼(りこうひつ)といった名将の軍隊と結託することで史思明を破ることになる。李萼は連合軍の結成を行うとそのまま表舞台には登場せず姿を隠すが、官軍側の軍需物資が枯渇すると(実際にこの乱は結局のところ終結に 9 年を要している)再び顔真卿の前に現れて策を献じる。これが塩の専売で、これにより官軍は豊富な軍資を得たのである。
この塩の専売に着目したのが顔真卿に協力した北海太守、賀蘭進明(がらんしんめい)の部下、第五き[注1](だいごき)という人物で、彼はこれを江淮地方の財源確保のために使い、それが遂には全国規模のものとなったのである。それは安祿山の乱後の租庸調制が崩壊した唐朝においては必然の流れであり、それが第五きの後の劉晏による専売法改革、楊炎による両税法として結実していくことになる。具体的に、第五きの行った専売はかく[注2]塩法と呼ばれる官が塩の生産から売買までの全工程を管理するもので、劉晏はこれを官は生産だけを管理して専売税をかけた後は商人に任せる通商法に切り換えた。これが塩の専売商人の登場を生み、彼らは特権を利用した私塩(密売)によって莫大な利益を上げたのである。また、斜陽にあった唐朝がなお命脈を保ちえたのも、ひとえに塩の専売に負うところが大きかったのである。
その後の情勢に対して藩鎮の跋扈に劣らず(特に安祿山・史思明の部下が残った盧龍・成徳・魏博ではほとんど自立状態にあった)、塩の専売こそが大きな影響を持った所以は、このような経緯による。(これは中国の海岸線の限られた地形にも関係している。)そして、唐末の黄巣の乱は周知のように塩の密売人による反乱であった。これは同じく塩の密売人であった王仙芝の乱に呼応したもので、見つかれば厳罰を免れ得ない彼らは普段より武力を擁して全国的に連携しており、それゆえに乱は大きなものとなったのである。四川以外の全土を巻き込んだこの乱は 10 年に及び、これによって唐朝は完全に力を失うことになる。
40-42/45/51-53
馮道が初めて官界に身を投じたのは幽州節度使であった劉守光の部下としてである。当時の幽州は上述した盧龍軍のあった地で、これは元安祿山の部下であった李懐仙が唐朝に帰順したものだが、最も反唐朝の性格を持っていた。節度使はめまぐるしく変わったが、これが独立状態を維持できたのは、唐朝側にはこれを平定するだけの財力に乏しく、かつ平定すれば契丹と境を接することになり労多くして益の少ない情勢があったためである。また、三武一宗の法難といわれる仏教弾圧の 3 回目に当る唐の武宗の廃仏でも唐朝は干渉しなかったため、これは中央からこの地への僧尼の流入を招いた。結果、盧龍軍は僧兵とも親密な関係を持つことになる。
また、節度使の元で(馮道のような)文人が仕えるようになった背景として、これも唐朝における律令制-州県制-府兵制の崩壊がある。隋以降の科挙制度は貴族以外にも門戸を開いていたとはいえ、あくまでも資格試験であり、実際に文官の登用を行う吏部(三省六部のひとつ)に貴族制の残っている以上、その壁は厚かった。これが同じく安祿山の乱後、大きく変わり、天子直属の官たる令外(りょうげ)の官が新設されるようになる。代表的なのが塩鉄使などだが、今度は次第にこれらが実権を握って旧来の官職を有名無実化するようになった。彼らは中央の吏部ではなく長官の使によって任免(辟招:へきしょう)されたから、そこでは家柄がなくとも実力で仕官することができた。結果、科挙の合格者でも辟招制によって仕官することが珍しくなくなリ、それは盧龍の地でも同様だったのである。
47/49/55-56
この盧龍において、河東の李克用の推挙により節度使となったのが劉仁恭、その息子が劉守光である。劉守光は劉仁恭の愛妾に通じたことで勘当されるが、逆に劉仁恭を捕えて幽閉し、義昌節度使を兼ねるようになる。この劉守光は反対を押し切って皇帝を称えるに至る。そして彼は太原の李存勗(りそんきょく、李克用の息子)の使者が皇帝に対する礼を取らなかったことに腹を立て戦をしようとするが、これに反対したのが当時、幽州参軍の地位にあった馮道だった。しかし、彼の意見は容れられず獄につながれてしまう。
58-61
黄巣の乱は彼自身の死によって一応の決着を見たものの、その後は完全に藩鎮による軍閥の割拠する状態となった。そして、そのような軍閥の中で最も力を持っていたのがべん[注3]州(開封)に拠を置く朱全忠だった。黄巣の乱の鎮圧に最も活躍したのは晋陽節度使だった李克用だが、彼は戦闘には長けていても乱後の政治面ではイニシアチブを得ることができず、老獪な朱全忠の敵ではなかった。朱全忠は後梁を建国して国都を開封に定め、宦官を廃すなどで政治に干渉し遂に唐朝は滅びるに至る。そして、唐の滅亡は契丹の耶律阿保機(やりつあほき)による遼の建国、北方の五代、淮南・蜀の十国という分立時代を招く。これがいわゆる五代十国時代である。なお、五代と北宋が開封に都を置くのは開封が大運河と黄河の合流地点に近く地の利があったためであった。
五代 : 後梁(朱全忠)、後唐(李存勗)、後晋(石敬塘)、後漢(劉知遠)、後周(郭威)
十国 : 呉、呉越、荊南、前蜀、びん[注4]、南漢、楚、後蜀、南唐、北漢
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