ASIAN JAPANESE
書誌
| text | 唯野 |
| author | 小林紀晴 |
| publisher | 情報センター出版局 |
| year | 1995 |
| price | 1,400 |
| isbn | 7958-1822-3 |
履歴
| 1997.8.3 | 読了 |
| 1998 ? | 公開 |
| 1999.10.30 | 修正 |
感想
もともとは週刊プレイボーイ誌上の後ろのグラビアの中で書評として写真とともに紹介されていて知った本。そのせいかは分からなかったが、案外とこの本のことを知っている人は私の周りを見る限りにおいても多かったと思う。
内容的には大きく分けて二部構成となっており、 前半は著者がアジアの旅の中で出会った若者との出来事がエッセイを交えつつ描かれている。そして、p.213以降では、前半部の旅を通じて知り合った人々とのその後のエピソードが収められている。個人的には、この構成は大変いいと思った。本当の意味での旅による連続性の確認や旅がそれぞれの人にとって結果的にどういうものであったのかが、時間を挟んだおかげで説得力を持って響いてきているように思えたからである。もちろん、(とりあえずの理由としての)日本型管理社会への抵抗というような主旨(?)の論調もないわけではないが、その点を割り引いたとしても、本書はなかなかいい本だと思う。90年代のアジア放浪関係の本の中でもエッセイだけでは終わっていない一冊。
抄録
2-5 -> Scan
上海から西をめざす旅人たち。そこは始まりの地であり、終わることのない新たな始まりの地でもある。
6
僕が彼らを撮って、そのフレームのなかで表現したかったこと、それは「危うさ」だ。
その危うさとは、まずたった一人で外国にいるということ。そして、当然ながら、ここにいるということは、日常ではないということ。そして先が見えない、どこまでも途中であるということ。
しかしながら、ここでいうところの危うさというのは外見的な環境に過ぎないのではないか ? 個人的には(アウトサイダーとしての)不安定な存在であるから海外に行くというような結論めいた意志を感じるのだが。
つまりはこういうことである。
cf.「波 1997.7」新潮社 : 有吉玉青「もうどうでもよくなった」p.32
日本にいるのがいやなのだ。すべて日本が悪いのだ。何かうまくいかないことを国のせいにするのはよくないが、この場合、「日本」というのは、人間関係、仕事、過去、過去が作った現在、現在が作らんとしている未来、そして他ならぬ自分、すべての隠喩(メタファー)となっている。だから、どこか違う国に行けば、すべては解決するのである。
というような感覚である。それ自体が答えとはなりえないにもかかわらず、それ(つまりはここでいえば旅を)を自分の中で美化し高い次元に置くことで満足しているような――そういう感覚である。
16
自分の意志で集団に属することを放棄するということ
38-40 -> Scan
干渉されないし過去も問われない、だけど異国の中で同胞として一つところに集まる日本人たち。
ネーションと言葉がとりもつ連帯。異国ゆえの姿なのだろう。
48-51
著者のサラリーマン時代のルーチン化した日常、そして管理される個の存在の描写部分。
厳しいいい方をすれば(そういうことをいえるだけに資格が私にあるのかどうかというのはともかくとして)、一般のサラリーマン社会を否定することと現在の「自由」な自分との関係があいまいであるような気がする。つまりは、個別の理由があるのではなくて、現状否定が理由になってしまっているような感じがするのだ。もちろん、私はそれを否定するつもりもないし、そういう意味での冒険の可能性も否定するわけではない。しかし、個人的にはルーチンの中からの脱出の部分にもっとスポットを当てて欲しかった。
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