思想としての60年代
書誌
| text | 唯野 |
| author | 桜井哲夫 |
| publisher | ちくま学芸文庫 |
| year | 1993 |
| price | 880 |
| isbn | 480-08036-8 |
履歴
| 2001.8.5 | 読了 |
| 2001.12.7 | 公開 |
| 2002.1.6 | 修正 |
感想
気鋭の社会学者(まあ社会学者なんていうのは、こういう形容詞で表現されることの多そうな職業ではあるが)による 60 年代論。但し、内容的には著者自身が断り書きをしているように、著者自身が 60 年代の同時代人というよりも 60 年代に少し遅れてきた世代であり、その立場による視点というのがポイントになっている。実際、本書の中ではそういう同時代人との認識の違いに触れた部分もあるのだが、読者である私から見れば、私などは更に同時代人でもないわけであるから「あまり大きな違いとして映らない」というのが正直なところである。
とはいえ、今の時代でも 60 年代というのは、一部の若者にとっては惹きつけられる存在であるし、そうなれば必然的にその意義なんかに関心を抱くのも当然の結果といえる。そういう意味では、もっと 60 年代論はあってもよいと思うのだが、当の同時代人たちがかつての糾弾された側(世代)となってしまった昨今では、それも難しいものになりつつあるような印象がある。私などはいつもそんなことを思いながら、この手の本を読むことが多い。
# 考えてみると社会人になってから社会学の本も読まなくなった。
# せっかく学んだのに、もったいない。もっと読まねば。
抄録
8-9/11
現在大きくなっている社会運動――フェミニズム、ゲイ解放、少数民族解放、環境保護――などは皆 60 年代にルーツを持っている。これら 60 年代の社会運動はロシア革命以来の「前衛」を崩壊させた点に特徴がある。つまり思想上での指導者がおらず、二項対立は意味を失っていた。
25
敵は外部にある、反抗せよ……
このスローガンこそがひとつのイデオロギー、単純素朴な疎外論であることをメルロ=ポンティは指摘しているのだ。そこからは決してわれわれをとらえる支配の網の目を見ることはできない。悪は、まさに「われわれお互いのあいだで織りなしたこの布地、しかもわれわれを息苦しく押えつけるこの布地から生まれる」のだから。
反抗ではなく、「いかなる諦めもなき固有の〔内在の〕力」こそ重要だ、というメルロ=ポンティの批判は、今読み返してみると、どうしようもなく正しい、としか言いようがない。
33
東京オリンピックは戦後日本社会のターニング・ポイントであり、この年にマッカーサーも死んだ。
34-35
「一億総化粧」(犬養道子)の狂乱については今ではほとんど忘れ去られてしまっている。あのオリンピックという祭りが生みだした「お祭り躁病」のなかで、ひとは過去も未来もないただ「現在」の熱気のなかにいた。すべてが「いま・ここに」の論理のなかで動いていた。したがって、*祭りのあと=あとのまつり* ――時間の経過のなかで、もはや明確な記憶もない。ただでさえ、近年の日本社会の精神構造は躁病的なのである。木村敏は、「その日その日、皆と仲良くやって行ければ最高なのです」という患者の言葉のなかに躁病者の「現在の優位」という病理をみている。(『時間と自己』)が、これは近年の日本人にとってかなり一般的な心性だといっていいかもしれない。
44
内部と清浄、外部と汚濁という象徴的図式ゆえに、オリンピックという儀式に至って日本全土が汚れをおとし、内部化=清浄化する必要が生じたのである。だが、ことはそれだけではない。清浄な内部は、つねに新たなエネルギーの供給によってのみ不浄と化すことをのがれるというメカニズムも持つ。
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