算私語録 その II
書誌
| text | 唯野 |
| author | 安野光雅 |
| publisher | 朝日文庫 |
| year | 1986 |
| price | 440 |
| isbn | 2-260417-4 |
履歴
| 2002.11.14 | 読了 |
| 2002.12.31 | 公開 |
| 2003.1.17 | 修正 |
感想
『算私語録』 の続き。続きなので項番も連番となっている。前著は書名の通り 345 で終わっているので、本書は 346 からとなる。おしまいは 567 であるから、これまた切りのよい数字になっている。こんな演出も洒落が効いているといえば効いているし、そんなこだわりこそが著者らしいという気もする。
抄録
349
科学と芸術という二つの言葉は、互いにひどく対立した感じで受け取られていることが多い。ざっといって、一九〇〇年以前の科学者は、芸術家でもあると思ってまちがいない。(森 鴎外、寺田寅彦、外国ではゲーテ、ファーブル、ニュートンなど、数えあげればきりがない)。なぜなら、学問そのものが、古来は今日のように分化したものではなかった。自然科学、社会科学、人文科学と細分化の一途を辿り、科学という言葉の概念が定量的になってくるのは、明治もはるか下ってからのことと思われる。今日の大学の工学部、文学部といった学部のあり方は、学問の能率化という現代の要求に対応しているまでのことで、人間を科学と芸術のいずれかのタイプにわけるためのものではあるまい。
352
「現実というものがしばしば幻想的であることに気づいた人なら、幻想家でなければとらえられない現実の奥底が存在することをおそらく承認するだろう。現実がどのくらい幻想的であるかを知りたかったら相対性理論や量子力学をのぞいてみるのがいちばんよい。」
これは遠山啓の言葉。
355
「俗に科学小説と称するものがある。(中略)それらの多くは科学の世界の表層に浮かぶ美しいシャボン玉を連ねた美しい詩であり、素人の好奇心を刺激するような文明の利器を陳列したおもしろい見世物ではあるが、科学の本質に対する世人の理解を深め、科学と人生との交渉の真に新しい可能性を暗示するようなものは存外にはなはだまれである。そうして、小説的戯曲的構成という形式的要求から、いろいろの無理な不自然な仕組みを使う必要が生じるので、結局はつじつまを合わせようとするために、かえってつじつまの合わぬ大きなうそをこしらえ上げることになりやすい。それで、こういう種類のいわゆる科学小説は、たいていは科学者にはばからしく、素人には科学に対する重大な誤解の誘引ともなりうるのである。」(寺田寅彦「科学と文学」より)
380-1
教養
世の中で考えられていることをいわれていることとの最善のものを知っていること、これが教養である。 マシュー=アーノルド
「じゃあなにかい、教養が欲しかったら、何でもかでも、すべてのことを知らなきゃいけない、とでもおっしゃるのですかい」
つまり最善のものを知るのはいいが、そのことが最善であることを知るためには、他のすべてを知って確かめてみなければならず、またそれが最善であることを判定するのは誰か、という問題も残されている。これは非常に困難なことであるから、したがって、「教養」というものを手に入れることは困難なことである。というふうに聞こえてくるが、それならばそれで箴言の意味がなくもない、という見解に達する。
401
ある日友人がきて、友人を得るいい方法が二つあると言った。それは、
一、金を貸す。
二、本を借りる。友人を失う方法も二つあると言った。
一、金を貸す。
二、本を借りる。
これは宇野信夫『しゃれた言葉』(講談社)からの孫引き。
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