類推の山
書誌
| text | 唯野 |
| author | R・ドーマル |
| editor | 巖谷國士(訳) |
| publisher | 河出文庫 |
| year | 1996 |
| price | 700 |
| isbn | 309-46156-5 |
履歴
| 2003.5.19 | 読了 |
| 2003.12.7 | 公開 |
| 2003.12.16 | 修正 |
感想
アレゴリーに満ち満ちた小説。これだけ徹頭徹尾、寓意のみで構成されている作品も珍しいのではないかと思われる。そしてこの作品のその度合いを完全にしているのは、本作が絶筆となり未完であるという点だ。その上で本書は本編以外の序文、後記、覚書の類を付与するという手法によって、不完全さを補うのではなく、逆にその不完全さを確固たるものにしている。だから、この本の読者が味わうのは完成されたものに対するそれとは永遠にならない。到達不能であることに対するあらゆる全て、それこそが本書の与える真実だからである。
カテゴリとしてはシュールレアリスムになるのだろうが、この本くらいその手の「分類」が意味を持たない作品もないだろう。「類推の山」を目指す登場人物たちの読者による追跡行は、いつしか著者からの読者に対する問い――「で、あなたは、いったい何を探しもとめているのか ?」――へと至る。そのための答えをアレゴリー(解説の言葉を用いるならば非ユークリッド的、アナロジー)によってしか成り立っていない本書の内部より得ようとするのは徒労だろう。問われていた問いを自身への問いはありえないかたちで相手に返す――それこそが本書の基本姿勢となっているからである。
抄録
16-17
「ある山が<類推の山>の役割を演じることができるためには」と私は結論していた。「自然によってつくられたありのままの人間にとって、
その峰は近づきがたく、だがその麓は近づきうる のでなければならない。それは 唯一 であり、地理学的に実在している はずだ。不可視のものの門は可視でなければならない。」
26
-/-この力というのは、観念を外部の事実のように眺め、一見まったくかけはなれたいくつかの観念のあいだに新しい絆をもうけることのできる、ある稀な能力のことだった。-/- cf.60
27
-/-生活はいわば有機体が異物をうけいれたときのように私に対していた――つまりどう見ても、私を膿として貯えるか吐きだすかしようとしていたし、私は私で「ほかの何か」に渇えていたということです。-/-
32-33
-/-
私は規則をすべて無視して修道院長に会いにゆき、「悪魔を演(や)る」のはもうごめんだといいました。修道院長はなかば真心のこもった、なかば職業的な厳しい穏やかさでこう話してくれたものです。「道士よ」、これが結論でした、「見たところあなたのなかには 」いやしがたい理解欲 があるようですから、もうこれ以上ながくこの修道院にとどまることはゆるされません。どうか別の道から神があなたを召されますように……。
ソゴル師の遍歴の挿話より。ソゴル(sogol)とはロゴス(logos)のアナグラムである。
126-127
-/-くだんの石の透明度はきわめて高く、その屈折率は、結晶密度の大きさにもかかわらず、空気のそれにごく近いので、予告をうけていない眼にはほとんど知覚できない。それでいて、真摯な願望と多大な欲求をもってそれを探しもとめる者にとっては、霧のしずくに似た炎の輝きとともにあらわれる。ペラダンこそは、<類推の山>の案内人たちが価値を認めるただひとつの実在、ただひとつの物体である。だからこそ、私たちのあいだでは黄金がそうであるように、貨幣そのものの保証なのである。
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