魔の山 (全2冊)
書誌
| text | 唯野 |
| author | トーマス・マン |
| publisher | 新潮文庫 |
| year | 1969 |
| price | 600 |
| isbn | 4-10-202202-3 (上巻) |
履歴
| ?.2.2 | 読了 |
| 2010.5.6 | 公開 |
感想
マンを代表する作品のひとつでドイツ教養小説の金字塔と目される作品である。が、個人的には自分がもっと若い頃にこの本を読んでいれば感銘を受けたかもしれないが、今になってみると少々くどい感じを受けないでもない。教養小説どころか教養そのものが意義を失っている時代にあっては、セテムブリーニとナフタの議論も底の浅く見えてしまう感がある。
もっとも、私自身が長編よりは短編好きであって、同じマンでも既に読書ノートとして取り上げている『マリオと魔術師』のほうが圧倒的におもしろく、『トニオ・クレーゲル』のほうが分かりやすいという面もあるとは思う。だから、後はマンといえば『ブッテンブローグ家の人々』もあるけれども、主に戦後に書かれた評論の類のほうを読むべきなのかもしれない。
主要登場人物
| ハンス・カストルプ | 主人公、ドイツ人 |
| ヨーアヒム・ツィームセン | カストルプのいとこ、軍人、先に療養していた |
| ベーレンス | 国際サナトリウム「ベルクホーフ」の院長 |
| クロコフスキー | 院長の助手 |
| セテムブリーニ | イタリア人の文学者、下28 |
| クラウディア・ショーシャ夫人 | ロシア婦人、惚れた相手 |
| フォン・ミュレンドンク | 婦長さんと呼ばれている |
| ナフタ | セテムブリーニの論敵、虚無主義者 cf.下160 |
| ジェイムズ | 叔父、ティーナッペルは大叔父 |
| ペーペルコルン | 年配のオランダ人、ショーシャ夫人の連れ |
抄録(上巻)
12-13
-/-つまり、空間も時々刻々に心的変化を生みだすのだ。そしてその変化は、時間によって生ずる変化によく似てはいるが、ある意味ではそれ以上のものなのである。時間と同じように、空間も忘れさせる力を持っている。しかし空間のそれは、人間をさまざまな関係から解き放って、自由な自然のままの状態へ移しかえるというやり方である。-/-
50
その印象をほぐして言葉で現わすと、だいたいつぎのようになる。つまり死というものには、敬虔で、瞑想的で、悲痛な美しさに輝く、いわゆる宗教的な面があると同時に、これとは全然違った正反対の、きわめて肉体的で物質的な面、美しくもなければ、瞑想的でも敬虔でもない、本当は悲しいともいえないような面があるということである。-/-
58
人間というものは、個々の存在として個人的生活を送っていくのみならず、意識的あるいは無意識的に、自分の生きている時代の生活や自分の同時代人の生活をも生活していくものである。そして私たちが、善良なハンス・カストルプが実際にそうであったように、自分の生活の普遍的、非個人的基盤を絶対的な、自明なものと見て、それに対して批判の眼を向ける気をさらさら起さないとしても、もしこの基盤に傷んだ箇所があったならば、そのために自分たちの精神的健康も本物ではないと漠然と予感することも大いにありうるだろう。-/-
181-182
見知らぬ土地に住み慣れる、以前の習慣を――骨は折れるが――変えて新しい土地に順応する、しかもその場合順応それ自体が目的であって、完全に順応したと思う間もなく、あるいは完全に順応した直後に、順応の努力を中止して元の状態に帰っていくことをはっきりと予定した上で順応しようと努力すること、どう考えてみても、そこには実に奇妙なものがある。われわれは、こういう事態を、中休みの間奏曲として、日常生活の大きい連鎖の中へ挿入する。しかも「休養」という目的で。格別の仕切りのない単調な生活を送っていると、それに慣れっこになってしまって気が緩み鈍る危険があるので、そうすることによって有機体を更新し革新するのであるが、では、同じ習慣を長年続けているといういう原因から有機体が緩み鈍くなるのか。それは、われわれの肉体や精神が人生のいろいろな要求のために疲れたり消耗するからなのではない(疲労や消耗がその原因であるならば、それを回復させるには休息という薬がある)、原因は、むしろ心的なものにある。つまり時間の体験が原因なのである。――間断なく同じ生活が続く場合には、時間の体験が失われる危険があって、この時間体験というものはわれわれの生活感情そのものときわめて密接な関係にあり、一方が弱くなると、それに伴って他方もみじめに委縮する。退屈ということについては、世間にいろいろと間違った考え方が行われている。一般には、生活内容が興味深く新奇であれば、そのために時間は「追い払われる」、つまり時間の経つのが短くなるが、単調とか空虚とかは、時間の歩みに
おもし をつけて遅くすると信じられているが、これは無条件に正しい考えではない。一瞬間、一時間などという場合には、単調とか空虚とかは、時間をひきのばして「退屈なもの」にするかもしれないが、大きな時間量、とほうもなく大きな時間量が問題になる場合には、空虚や単調はかえって時間を短縮させ、無に等しいもののように消失させてしまう。その反対に、内容豊富でおもしろいものだと、一時間や一日くらいなら、それを短縮し、飛翔させもしようが、大きな時間量だとその歩みに幅、重さ、厚さを与えるから、事件の多い歳月は、風に吹き飛ばされるような、貧弱で空虚で重みのない歳月よりも、経過することがおそい。従って、時間が長くて退屈だというのは、本当は単調すぎるあまり、時間が病的に短縮されるということ、のんべんだらりとした死ぬほど退屈な単調さで、大きな時間量がおそろしく縮まるということを意味する。-/-
221
-/-するとドクトル・クロコフスキーはいった、病気がそれである、病気の症状は、仮面をかぶった愛の活動であり、いっさいの病気は、変装した愛にほかならない、と。
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