永遠の歴史
書誌
| tag | ラテン |
| text | 唯野 |
| author | J.L.ボルヘス |
| editor | 土岐恒二(訳) |
| publisher | ちくま学芸文庫 |
| year | 2001 |
| price | 900+tax |
| isbn | 480-08625-0 |
履歴
| 2002.6.27 | 読了 |
| 2002.10.15 | 公開 |
| 2003.1.8 | 修正 |
| 2012.1.18 | タグ追加 |
感想
ボルヘスの書いた主に永遠・無限に関する文章と文学論的な文章を集めた本。本書を読んでいる間ずっと「本書をもってしても、結局のところ、これはボルヘスという作家のごくごく一部に過ぎないのだろうな」という印象が私の頭から離れることはなかった。それくらいに幅を感じさせる内容なのだが、表題作でもある冒頭の「永遠の歴史」は、それでなくても難解である。そのため、後でも触れているように、これに関しては文字通り部分の抽出しかできていない。本来なら「読書百遍、意自ずから~」の精神で再読すべきなのだろうが、そのままにしている。というのも、多分に、この種の難解さはある程度の時間を置いた方がよさそうな感じがするからである。
なお、ボルヘスの文庫化されている作品はこれで一通り読んでしまったので、この先は国書刊行会辺りの本ということになる。(そう考えると出版社からも作家が見えてくるというか...)読みたいのはやまやまであるけれども、さすがにこの先は予算との兼ね合いが問われる。いうまでもなく、ボルヘスの見せる作品の奥行きの広さとは裏腹に、私の懐具合の方は極めて有限だからである :-)
抄録
11
どちらの考えも(時間が過去から未来へ流れるか、或いはその逆か:唯野注)同等に真実らしく――また同等に立証不可能である。ブラッドリーは両説をともに否定し、さらに一歩進んで個人的な仮説を立てている。すなわち、未来という、われわれの願望がでっち上げたにすぎないものは排し、<現実>を、過ぎ去れば瓦解する現在の瞬間の末期の苦しみに還元するのである。このように時間を遡行させることは、漸減的な、あるいは無気力な状態と照応するのがつねであるが、それに対して、およそ張りつめた時間というものは、未来へ向かって堂々の行進をするように思われる。ブラッドリーは未来を否定する。インドの哲学諸派の中には、現在を捕捉し得ぬものと考えて否定する一派がある。「蜜柑の実はまさに枝から落ちようとしているか、すでに地面にあるかのどちらかである」とその異国の単一論者たちは主張する。「誰もそれが落ちるのを見ることはない」
15-16
それに先立ついくつもの段階において繰り返されている、多様性を肯定する表現は、我々を誤解へと導きかねない。プロティノスがわれわれを導いて行こうとしている理想の世界は、多様よりも充実ということに熱心である。それは反復と冗漫を許容しない精選された総覧である。それはプラトン的原型を収蔵する、不動の恐るべき博物館なのだ。はたしてそのようなところを(幻視家の見神や悪夢を別とすれば)、人間の肉眼が見たのか、あるいはそのようなところを考え出した古代ギリシア人がそれを想像したのかどうか、私にはわからないが、私はその世界に、静かな、途方もない、分類された、なにやら博物館のようなものを予感する……。これは個人的な想像であって、読者はそんなものは忘れてもかまわない。忘れてもらって困るのは、永遠界に住まう、あるいはそれを構成している、あれらプラトン的原型、つまり始源的な究極因、もしくはイデアに関する一般的な知識である。cf.21 (プラトン的原型への疑念について)
18-19
-/-ショーペンハウアー、情熱的で明晰なショーペンハウアーはひとつの理由を提示する。すなわち、死も思い出も知らずに動物たちが生きている純粋な肉体的現実。そのあとで彼は、微笑さえ泛(う)かべてこうつけ加えている。「いま中庭で遊んでいる灰色の猫は五百年前に飛んだり跳ねたりしていた猫だと私が断言するのを聞いたら、人は私のことを酔狂だと考えるだろうが、それを根本的に別の猫だと考えることのほうがよっぽど気違い沙汰だ」。それにつづけて、「獅子たちの運命と生涯は絶対的獅子性を願望している。それは、時間の世界に置いて考えてみると、発生と死を千古不易の図柄の拍動とする個々の獅子たちの無限の交替によって持続している、一頭の不死身の獅子のようなものだ」。またそれより前のところには、「私の誕生に先立って無限の持続があったわけだが、それほどの間、私はいったい何だったのか。形而上的には、おそらくこんなふうに自答できるのではないか。『私はつねに私だったのだ。つまり、人が何と言おうと、私はその時間のあいだ、他ならぬこの私であったのだ』と」。
25
罪の贖いという概念から解放されると、一体の中に三位格の区別は気まぐれのように思われざるを得ない。信仰の必然として考えてみると、その根本的神秘は減じないが、三位一体説を採った意図が見えてくる。三位一体説――少なくとも二元論――を否定することは、イエスを主なる神の臨時代理者、歴史上の一付帯事件とするものであって、我々の献身の永久に変らぬ審問官とするものではないであろう。もしも「子」が「父」でもあるというのでなかったら、罪の贖いは神の直接の御業ではないことになる。もしも「子」が永遠のものでなかったら、恥を忍んで人間に身を窶(やつ)し、十字架にかけられて死んだ生贄もまた永遠のものではないであろう。-/- cf.29
33
宇宙は永遠を要求する。神学者たちは、もしも主の注意が一瞬このものを書く私の右手から外(そ)れるならば、あたかも光のない雷電に打たれたように、それはたちまち無へと帰すであろうということを知らないわけではない。それゆえ彼らは肯定するのだ、この世界の維持は不断の創造であり、「保存する」と「創造する」という、いまは非常に対立的な二つの動詞も、天国では同義語なのである、と。
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