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エンデのメモ箱 (全2冊)

書誌

text唯野
authorミヒャエル・エンデ
editor田村都志夫(訳)
publisher1998
year\2,300+\2,200
price0-092058-8
isbn59-6

履歴

2000.5.7読了
2000.5.9公開
2003.1.2修正

感想

エンデ全集の最後を飾るのは、エンデが創作のために残した膨大なメモや書き付けを整理・集成した、その名も「メモ箱」である。(実際、この本がエンデにとって生前では最後の本となった。)そして、確かにその名にたがわず本書には散文から戯曲から言葉遊びまで、ジャンルを問わないエンデの言葉の数々が織り込まれている。作家のこういう世界を見るのは、作家を知る上での正攻法とはいえないのだろうが、一読者の側からしてみると非常に興味深くおもしろいのも事実である。実際、私も大変楽しみながら読ませてもらった。「やっぱりエンデはおもしろい !」と実感させられた文章の玉手箱だったと思う。

ちなみに印象深かったものを挙げると、上巻では「ニーゼルプリームとナーゼルキュス」「魔法の時計」「平行ものがたり」「悪の像」「時間」「想像力」。下巻では「演劇批評家」「無意義への殉教者」「運命の象形文字」「見知らぬもの嗜好症」「最終の待合室」「死についての対話」などだった。

抄録(上巻)

47-51 「愛読者への四十四の問い」より

人生の問題に直面していて、ぴったりのときに、ちょうどぴったりの本を手に入れ、ぴったりのページを開き、まさにぴったりの答えを得たとすれば、それは偶然だと思いますか ?

天使や悪魔や奇跡について聖書は語りますが、それでは聖書はファンタジー文学に属するのでしょうか ?

トルストイが書くモスクワ、フォンターネが語るベルリン、モーパッサンが描くパリ、これらの都市は現実にあるのか、あるいはそもそもかつてあったのでしょうか ?

戦争の残虐さからなにも学ばず、自分も変わることなく戦争を体験した者に、戦争の残虐さの叙述がなにかを教えたり、そればかりかその者を変えることができるでしょうか ?

千人の苦しみは、一人の苦しみよりも大きいのでしょうか ?

それを表す言葉がまだない、そのようなものを考えることができますか ?

詩を?理解した?というとき、それはどのようなことなのでしょうか ?

すべては無意味だと、人に説きつづけてやまないニヒリストを駆り立てるものは、何なのでしょうか ?

恐ろしい拷問死を、美しい絵、美しい音楽、美しい詩句で表現するとき、なにがそれを正当化するのでしょうか ?

読者と本のあいだに生じることは、どこで起こるのでしょうか ?

芸術は省略にあるとすれば、最高の芸術とはなにもしないことではないでしょうか ?

そもそも読者に詩人を理解する義務があるのでしょうか ? あるいは詩人に読者が理解できるように書く義務があるのでしょうか ?

小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか ?

平均的人間というものに出会ったことがありますか ?

ドイツ、イギリス、フランス、スペイン、イタリアの全文学が二十六のアルファベットから成っていることは、実に不思議なことではありませんか ?

64

よい詩には英知が書かれてなくてもいい。よい詩はその成果なのだから。

67

人はだれも自分が探すものに変身するのだ。

78/80/83/85/88-89/90

子どもに子どもの世界をあたえること、そして児童文学とはいつごろから必要になったのだろう ? ほかの文化圏では、科学的啓蒙の影響下におちいっていないかぎりは、子どもと大人はともにひとつの世界に生きているではないか。ヨーロッパでも昔はそうだった。このひとつだった世界はいつ、どのような理由から二つに分裂したのだろうか ?

この荒れはてた、そして文字どおり善き神々に見捨てられた観念構造が、つまり大人の世界となったのだ。そして大人たちは自分の冷酷な?真実への愛?を誇りに思い、なによりも、ついに天地創造のペテンを見破ったことを誇りに思うのである。不思議のベールを剥ぐためのおまじないが、たえまなくぶつぶつ唱えられる。文句はこうだ。「それが……にすぎないことを、今日のわれわれは知っている」。この「……にすぎない。」をつければ、まったく馬鹿げた、嘘のような仮説でさえも科学的事実になりうる。かれらがやみくもに熱中する、この魔法のベールを剥ぐ行為は、われら先住民にはついに理解できぬ謎でありつづけるだろう。

わたしはまじめにこう考えたりもする――『オデュッセイア』という物語だが、仮にこの物語がまだ存在せず、現代人ホメロスによって書かれたとすれば、この物語は?児童本?という弁解めいた大見出しのもと以外に出版されることがあるだろうかと。この物語は巨人や風王や妖精やそのほかの?非現実的な?ものたちでいっぱいではないか。ゲーテの『ファウスト』にしても、現代では、実際、童話劇として以外では上演できまい。科学に啓蒙された者ならだれでも悪魔なんで存在しないことを知っているし、だから悪魔と契約することなんかありえないと知っているはずなのだ。

倫理、道徳、ヒューマニズムだって ? こんな概念はいったいどこから突如あらわれたんだ ? このような概念は主観的で、だからまやかしの価値であり、客観的にはまったく存在しないと聞かされたばかりじゃなかったのか ? こんな価値が価値観にとらわれない思考になんの用があるというのだ ? 啓蒙主義者の正統性の主張は普遍的で情けようしゃもなく、独占的なのに、その教条の残酷な必然的帰結を実行する者がいると、どうしてかれらは驚愕するのだ ? それとも、かれらはとどのつまり、自分たちが説くことをまじめに信じていないのだろうか ?

それだから、まったくちがうかたちの科学や学問が必要なのだとわれらは信じている。-/-主知主義を、?非合理性?ではなく、それを最後まで考えることで克服し、もっと現実性に満ちた、つまり体験できる思考を通じて、人間の経験の領域へと取り戻す科学である。

もはや数や図形が被造物の手がかりではなくなり、
歌い、接吻する人が学識者より多くを知るとき、
世界が自由な生へ、次いで世界へ帰還するとき、
そしてふたたび、光と影が真の光明へと結ばれるとき、
人がおとぎ話や詩に真の世界の物語を見いだすとき、
そのとき、ひとことの神秘な言葉のまえに、
まちがったものすべてが消え去る。

103

真実は単純だと、よく耳にする。それは正しい。しかし、なにか誤ったことを言いたいのではないかと、それだけが気にかかる。単純なことは簡単にわかるはずだと言いたいのではないか。しかしこれほどむずかしいことはない。

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