ホーム > 読んだ > 国外

カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢

書誌

text唯野
authorマックス・エルンスト
editor巖谷國士(訳)
publisher河出文庫
year1996
price777+tax
isbn309-46157-3

目次

1感想
2抄録

履歴

2002.6.13読了
2002.7.8公開
2002.8.4修正

感想

最近は別に本書の河出に限った話でもないが、この国の出版を取り巻く全体的傾向として、本の絶版(=再版予定なし)となるペースが非常に速い。同時に単行本の文庫化される間隔も短くなり、書物のたどるサイクルそのものまで短縮されているというのが現実である。そうなると必然的に本を買う基準というのが、どうしても差し当って必要な本というのと同程度に、「絶版間際だから」という理由に負う部分も多くを占めることになる。もちろん、絶版が早いというのはリバイバルされるペースも早いということであって、(特に昨今だと B 級漫画なら一冊からの復刻サービスも現れているから)その意味では書籍全般が漫画化しつつあるともいうことができる。

p.51さて、そんなわけで、この本を大急ぎで買った理由も上述の通りである。私はマックス・エルンストはとてもおもしろいと思うが、同時にそれほど一般受けもしないだろうと思うので、絶版はある意味予想できないことでもない。むろん、版元側で在庫を持っておけばよいともいえるのだが、この国ではそれにもお金がかかるため、上述の事情では版元にとりそれが苦しいのも理解できる。そうなると、理不尽さを感じつつも読者としてはそうなる前に買うしかない。私としても以前のように足げよく古本屋を歩き回る時間がない以上、そうせざるを得ない。

なんだか書いていると悲しくなってくるので本題に入ろう。というわけで、これもマックス・エルンストによるコラージュ本である。しかし、内容的には 『百頭女』 よりも全体の構成といいコラージュとそれに添えられる文章といい、関係性が見受けられる。まあ、それも比較レベルでの話なのかもしれないが、私にとっては『百頭女』の印象が強烈なため、文脈との無関係さに魅力があり、内容に関係性のある本書はその分、興をそがれた印象を受けた。

しかし、一方で本書は巻末においてマックス・エルンスト、コラージュ、シュールレアリスムというキーワードを理解するためのテキスト群が訳者によって用意されており、これが極めて適切である。詳細は引用部分に譲るが、本書はこれだけでも価値がある。解説が優れた本のよい例だろう。

抄録

200

ランボーによれば(コラージュとは:唯野注)「単純な幻覚」。マックス・エルンストによれば「ウィスキー海底への潜行」。それは視覚的イメージの錬金術のような何ものかである。さまざまな存在および物体を、それらの物理的ないし解剖学的な外観を修正しあるいは修正しないで、全面的に変形させてしまうという奇蹟である。cf.210/228-229

202-203

生まれつきの用途が動かしがたくきまっているように見えるひとつの出来あいの実在(雨傘)が、それとひどくかけはなれてはいるがおなじくらいとるにたりないもうひとつの実在(ミシン)と、両者いずれもがデペイゼされてちがう環境に置かれたと感じられうようなひとつの場所(解剖台の上)で、とつぜん出くわしたとき、その実在は、まさにその出あいという事実自体によって、生まれつきの用途と自己同一性とからのがれるだろう。それはみずからのいつわりの絶対から、ある相対の迂回路を通って、ある新しい、真実の、詩的な絶対へと移行するであろう。つまり雨傘とミシンとは愛をいとなむであろう。この方法のメカニズムは、私の見るところ、以上のごく単純な例によって明らかにされる。愛のように純粋な行為にひきつがれる完全な変質は、あたえられた事実――一見ふさわしくない平面の上で、一見むすびつきそうもない二つの実在がむすびつくこと――によって、条件が有利なものとなるたびごとに、必然的に実現されるであろう。-/-

212

-/-思うに、コラージュこそは地震計にも似て、あらゆる時代の人間の幸福の可能性の正確な量を記録しうるような、過敏かつ厳正な器械であると断言してもいいほどである。真正なコラージュのひとつひとつにふくまれる黒いユーモアの量は、(客観的かつ主観的な)幸福の可能性と反比例してそこに見いだされる。

225

そこへ行くと、エルンストのほうははるかに軽く、空気的である。というか、ダリよりも十三年も早く生まれたこの中部ヨーロッパ人は、幼児的なダリとはくらべようもないほどさまざまな闘いを体験しており、彼自身、何度も生まれかわってきているのだ。一九一四年、第一次大戦勃発の直後に、エルンストはいちど死んだ。(これは大戦にエルンスト自身動員されたこと、即ちドイツがロシアに宣戦布告した 1914.8.1 に彼は死に、1918.11.11 の大戦終結によって蘇ったことを指す:唯野注、cf.192)-/-いちど死んだ人間が、自分の過去にいわゆる偏執したり、粘着したりすることはない。戦後派のダリがもっぱら生を渇望し、ことさらに旺盛な活力の物語をくりひろげようとしたのに対して、エルンストははじめから、肉や血や汗の匂いからは遠いところにいた。彼はすでにいちど死んでいる、生まれかわっている。大戦とともに何かが去っていった空疎な、無政府的な、廃墟のような一九一八年の空き地にちらばる事物たちの、ぶつかりあい、からみあい、いがみあい、ときにはいかがわしい愛をいとなんでいる状況を、彼はまず客観的に、方法的に、絵画の場にうかびあがらせようとしたのである。

226-227

-/-コラージュとは、従来の絵画にまとわりついていた個人の「才能」や「努力」による芸術的「創造」という物語を、根底からゆるがしてしまうものである。芸術家がきょうは卵を三つ生んだが、あしたは二つ、そして日曜日には何も生まないだろう――といった「創造」の神話はもはや終焉している、とエルンストは述べた。芸術とは、むしろ受動的なものである。生むのではなく、生まれてくるものである。芸術家は作品の視覚を通じて受容される何ものかを、カンヴァスや紙の上に投影してゆけばそれでよい(マックス・エルンスト「シュルレアリスムとは何か」、一九三四年)。

全文を読まれる場合はログインしてください


Up