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愛の断想・日々の断想

ジンメル/清水幾太郎(訳) 岩波文庫/1980/\410 0-336441-4

読感

ジンメルといえば著名な社会学者であるが、本書は彼の遺稿集からの抜粋を一冊の本としたものである。書名にもあるように、ここでの「愛の断想」は、彼にとっての「愛を知る人とは」という意味合いが強いものだ。これは後書きで語られているように、彼自身の愛人の存在にかけたものであったようである。一方の後者は彼の哲学者としての側面を示したもので、なかなかの寸言が並んでいる。実をいうと、既にこの読書ノートでも、そのうちのひとつは収録済である。(探してみよう :-))

それはさておき、ジンメルのような(いわゆる社会学の礎を築いた)人を見て私が思うのは、その学問の扱う対象領域の広さである。これはウェーバーにせよ、デュルケムにせよ、マルクスにせよ皆にいえることで、こういった人たちは社会学者でもあれば哲学者でもあり、経済学者でもあるといった、実に幅広い側面を持っている。もちろん、学問そのものの成熟していなかったがゆえに、そういう活動領域を後付けされるような必要性もなかったのだろうが、やはり専門分化してしまっている現在の学問の世界のことを考えると、すごいなと思わずにはいられない。そういえば、利根川進氏がノーベル賞を取ったときに、「取れる分野を選ばなければならない」といっていたのを、ふと思い出した。

愛の断想

13

愛を知る人においては、愛は自己目的である――生殖のためでもなく、快楽のためでもないことが、彼にとっては決定的である。

14

愛を知る人というのは、取ることと与えることとが一つであるような人間、取ることによって与え、与えることによって取るような人間なのである。

45

キリスト教の愛は、本質的に、助力の意思へ向うもので、他人の苦しみによって実現されるものである。こうして、キリスト教の愛は一般的なものになって行く。極めて深く且つ全く個人的な苦しみは、他人に手が出せるものではない。手が出せるのは、一般的な悩みだけで、貧困、病気、孤独なら助けることが出来る。キリスト教における愛の心の内容は、その宗教的基礎と同じように、一般的なものである。

49

世界を魂と規定するか、魂を世界と規定するか、存在か生成か、これは大きな対立である――同じことは愛にも見られる。在る人々から見れば、愛は、存在するもの、動かぬもの、絶対のものであるが、他の人々から見れば、絶えず生成するもの、休みなき発展、変化するもの、新しく獲得して行くものである。日々、愛を獲得して行かねばならぬ人だけが、「自由や生命」を得るのみならず、愛をも得る。

日々の断想

55

形式の豊かさというものは、無限の内容を取り入れ得るところに存し、内容の豊かさというのは、無限の形式に入り込み得るところに存する。二つの無限が相合うところに有限の姿が生れる――これによって、二つの無限は、形式を与えられた内容として見える一切の存在の周囲に漂い、一切の存在を無限なもののシンボルたらしめる。

56

哲学者には三つの種類がある。第一の哲学者は、物の心臓の鼓動を聴き、第二の哲学者は、人間の心臓の鼓動だけを聴き、第三の哲学者は、概念の心臓の鼓動だけを聴く。そして、第四の種類(哲学の教授諸君)は、文献の心臓の鼓動しか聴かない人たちである。

57

哲学者は、万人の知ることを語る人間でなければいけない。ところが、万人がただ語ることを知っている人間である場合が多い。

57

何事によらず、証明出来ることは、また、論争出来ることである。論争の余地のないものは、証明出来ぬことだけである。

65

自然科学は可能的必然性を目指し、宗教は必然的可能性を目指している。

66

芸術と宗教とに共通な点は、その対象を出来るだけ近づけようとして、これを出来るだけ遠ざけるところにある。

68

ひとり哲学の名声のみでなく、その実際の意義も、全体として、哲学が未だ到達していないもののお蔭で存在している。

71

人類の二つの最高理念である無限と自由――それが直接には単に否定であり、単に制限の廃棄であるという事実、そこに人類の宿命の何と深い根があることか !

79

人間の本質と特徴とは、彼の絶望の存するところにある。

84-85

各瞬間が究極の目的であるかのように――それと同時に、如何なる瞬間も究極の目的ではなく、各瞬間が更に高いものへの、或いは、最も高いものへの手段に過ぎぬかのように人生に処さねばならぬ。

86

究極の最高の客観的価値は、これを主張することは出来るが、証明することは出来ない。自分の価値というのは、証明すべきものであって、主張すべきものではない。

86

この世に処する最高の術は、妥協することなしに適応することである。たえず妥協しながら、それで一向に適応に達しないのは、極めて不幸な素質である。

88

幾つかの偉大な思想だけは本当に自分のものにしておかなければいけない。明るくなるなどとは思いも及ばなかった遠いところまで、それが光を投げかけてくれるから。

88

精神の自由とは、精神による拘束のことである。すべての自由は、やがて支配を意味するから。

95

(男性的なものと女性的なものとの場合と同じように)、同一の概念の相対性と絶対性とが二つの側面に存在している。即ち、絶対的意味における人格的なものは、人格的なものと非人格的なものとを包括する――最高の意味における非人格的なものについても同じことが言える。

96

-/-天才とは、概ね手段に対する支配である。実践上の天才は、手段を駆け抜け、これを服従させ、これを飛び越える。ところが、天才でないものに対しては、手段は自分相応の関税を請求する。-/-

103

-/-私たちが或る物を力の限り完全なものに作り上げると、それで、自分自身を出来るだけ完全なものに作り上げるという義務を免れたと考えることがよくある。即ち、物の問題を解くことによって、私たち自身の問題を解くのを避ける。-/-

104

仕事のために働いている人間は多いが、仕事が自分で働いているような人間は少い。

107

教育というのは、不完全なのが普通である。その一歩一歩が、解放と束縛という二つの対立する傾向に仕えねばならないから。

116

軽薄なことと退屈なこと以外は、なんでも我慢出来る。しかし、大多数の人々にとっては、何れか一方に陥ることなしに他方を避けることは全く不可能である。

118

酔って正気なのは見事だが、正気の人間が酔ったら手がつけられぬ。

120-121

傲慢な人間にとっては、自分の価値の絶対的な高さだけが大切であり、虚栄心の深い人間にとっては、自分の価値の相対的な高さだけが大切である。

130

レオナルド・ダ・ヴィンチは、近代的な自然法則の概念から出発して、世界を純粋自然的に把握した最初の人であったと思う。そのために、却って、彼の時代は、彼をなにか超自然的なもの、君の悪い魔法使のように感じたらしい。まだ中世的なところのある思想にとっては、絶対に自然的なものの方が魔術的なのであった。これに反して、私たちにとっては、自然的なものが全く「自然的」になってしまったようである。そのため、私たちの時代は、過去の如何なる時代よりも、宗教を見出すことが困難であり、また、そのために、私たちの時代は、宗教を必要としている。

138

預言者や指導者が言ったり望んだりした通りのことが、この世の中に生じたことは一度もなかった。しかし、預言者や指導者がいなかったら、全く何も「生じる」ことはなかったろう。

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