読書ノート

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未開の顔・文明の顔

中根千枝 中公文庫/1990/\520 12-201729-7

読感

著者は社会人類学者で『タテ社会の人間関係』で著名な人。この本は著者が 1953 年から 57 年にかけてアジア・ヨーロッパを留学した際の紀行記をまとめたものである。私は本書を読むまで『タテ社会の人間関係』での先入観から日本が専門の人なのかと思っていたら、(本書を読めば分かることであるが)チベットなどの方が本来は専門の方のようである。

そんなわけで時期的に古いせいか単純な未開(悪)-文明(善)のような論調も一部にはあるものの、やはり視点は鋭いというか読んでいておもしろい本になっている。上野千鶴子などの本を読んでも思うのだが、学者な女性の書く旅行記に外れがないというのは一考に値するのではなかろうか。

抄録

11

こうした世界に入ったはじめの半年ばかりというものは、強烈な刺激と神秘への好奇心で夢中に過ぎて行くのであるが、そうした一定の時期を過ぎると、神経がくたくたになり、自分の常識とか尺度が片っぱしから無力なものとなる不快さを味わわされる。-/-

そうした時機を苦しい暑さとともに過ごしているうちに、やがてモンスーンが終り、熱帯にもヒマラヤの涼風が吹き出すようになるとともに、「インド」が底知れない、母なる大地の女神の愛のように、やさしく、そして力強く私を包みはじめたのを覚えた。-/-

15

インド東北のバングラデシュからミャンマー・チベットに至る山岳地帯がアッサム。

19-20

-/-女は弱いんだから、自分たちのように財産は女に持たせるべきだ。日本の女の人たちはかわいそうだという。ガロ族は世界でも珍しい「母系制」をとっている民族で、結婚すると夫は妻の家、あるいは妻の村に来て住み、家、財産、子供はみな妻に属し、家、財産は娘の一人に相続されるのである。

24

-/-こういう未開民族の地帯では、その地方、地方に有力者がいて、「よし、引受けた」といったら万事オーケーである。奥地旅行にはこうした有力者をリレー式に利用して入って行くわけである。政府の役人など奥地ではなんの役にもたたない。-/-

29

-/-ガロ族は夫婦の一人が亡くなると、すぐそのお葬式の場で親族一同(村人はみんな親類になっている)で、あとがまをきめる習慣になっている。すでに娘が婿をとっている場合には、夫が亡くなると、同時にその婿を夫とする。すなわち、婿は義母の夫をつとめ、母娘二人の夫となる規則になっている。だからガロ族の間には未亡人とか、やもめの男は殆んどいないのである。

30

母系制は母権制とははっきり異なる。母権制はその社会の政治、社会的権力を女性が握っている制度である。母権制は過去にはどこかにあったかも知れないが、現在、世界のいかなる社会にもないのである。母系制は、相続は母の系統をたどり、経済生活のうち、財産の所有権は女子(最年長の)にあるが、その管理権は男子(最年長の)にあり、家長も男子がつとめ、外部との交渉は一切男子が当る。-/-

この後に婿入りの場合の「嫌々ながら引き受けた」というのが夫の側の発言力につながる結婚までの形式の説明が続く。

41

-/-像や豹は(焼畑に:唯野注)今年使用していない土地に横行し、収穫期となると象はその畠をねらい、虎や豹は一年を通じて部落の人たちの飼っているニワトリや豚、牛をねらって部落の近くをうろついているのである。だからこうした猛獣は人跡未踏のジャングルよりも、むしろ人間の近くにいるのである。そのためこの地方でキャンプ生活をすることは、ほとんど不可能である。

43

-/-文字をもたない人々のメンタリティ、関心事、喜び、怒りといったものは、何か私たちのものと本質的に異なるものだ。彼らには抽象化された思考、本能を意思によってみがきあげるといった人間的な悩みや、それに訓練された精神のバランスといったようなものはない。社会の各人が、その社会の要求に応じて、原始的な生産活動の役割を果し、食べていくというきわめて単純そのものの生活のくり返しである。そのために各人の一日は全く無駄のない行動の連続によって、ちょうど学校の時間割のように、朝起きて夜眠るまでぎっしりつまっている。

72

日本軍の無謀な戦い方が逆に首狩り族の間では勇敢さとして評価されているという逸話。戦争の残すものにもいろいろあるということか...

78

ネルーがかつて、スパイの巣窟だといったこのカリンポン(インド北方にあるチベット貿易の中心都市:唯野注)ではあるが、とにかくあらゆる主義、宗教、歴史、習慣を異にする人々が、世界情勢からみても注目されるこの国境の町で、国際的なスパイの活動をよそにそれぞれ精一杯に仕事に打ち込んで驚くほど自由に仲よく生きている。-/-

このカリンポンにタゴール家の別荘「チトラバヌ」がある。

88-91

チベット仏教(ラマ教)の歴史について。吐蕃がチベット古来のボン教によって力を失った後、12 世紀に入って仏教は再び興り 13 世紀には隆盛を極めるようになる。そして、15 世紀のツォンカパによる改革を経て 17 世紀に全チベットに影響を持つダライ・ラマ教権が成立する。

92

さて、このようなチベット文化にはぐくまれたヒマラヤの王女たちが特に私を驚かせたのは、その自由、闊達な行動、思考である。仏教の論理、道徳とうものがいかに女性をのびのびとさせるかは驚嘆に値する。-/-

乗馬のできる「服装」が和服やサリーやスカートとは違って女性の行動性を満たしているというのはなるほどなと思う。

99

-/-ヒマラヤの人々が神秘で未開に見えるという人たちは、その人たちにチベット仏教や、その社会に関する教養のない故である。日本の、東洋の文化を少しも知らないヨーロッパ人が日本人を気味悪く思うのと同じことである。

102-103

シッキム(当時はまだ中国がチベットを併合する前なので:唯野注)ではラマ寺院が社会的・文化的にも重要な位置を占めている。冠婚葬祭はもとより部落の出来事にも僧侶たちが対処する。また、各寺院の管轄に属するジンダア(檀家)は相当の経済的援助を寺院に対して行っており、かの地では頭がよければ誰でも僧侶になることをめざす。(インドのブラーフマンが身分制によって固定されているのに対し、そういう差別はない。)。シッキム特有の僧侶の修行にはツァンカンと呼ばれる小屋での瞑想があり、一生をそこで過ごすものもいる。

106-107

この地方での一妻多夫制について。財産相続が均分制の場合、息子に分けるとどんどん分割してしまうが、兄弟が同じ妻を持つことで逆に財産の分散を防いでいるということ。同様にして姉妹だけの場合の一夫多妻もあるが、とはいえ、これらは全体から見れば 2 割程度にとどまる。

111/124-125

カルカッタは東インド会社以来のイギリスによる(デリー遷都まで)インド政庁のあったインド経済・ベンガル文化の中心地だった。(初代ベンガル知事がロード・クライヴ、初代ベンガル総督がウォーレン・ヘースティング。)また、カルカッタを中心として独立の民族運動が起こった。(チャンドラボーズなどを輩出した。)

113

カルカッタにはこんな話がある。車で人をひいて、裁判になったら、「つい牛をよけようとしてハンドルを切って、ひいてしまいました」といえばよい。罪は間違いなく軽くなると。牛を平気で殺して食べるイスラム教徒や外国人の多いカルカッタでは、毎年「牛を殺すな」という大変なデモをやる。そのたびに物凄い大勢の人たちが参加して、たいてい二、三人は窒息して死ぬのである。ヒンドゥ教徒にとっては牛は人間よりも確かに上位をしめているようだ。

114/134-135/141-142

「マロワリ」と呼ばれる商人たちについて。彼らはインド北部のマロワール地方出身の人間たちでジャイナ教を信奉する。血縁を重んじるギルド的な集まりでインドのユダヤ人とも称されるほど金儲けに固執する。但し華僑やユダヤ人とは異なり国外には出ようとしない。

ちなみに p.134-135 は日印貿易の変化について述べられており、合わせてマロワリ相手に苦労する日本人ビジネスマンの話が登場する。著者はこれを相手を信用してしまう日本人的性向との違いとして着目している。例えば以下のような感じだ。

「うん、それはあるな。例えばあるものを百五十円で相手に売ろうとして百円で仕入れる。ところが相手はどうしても買わないんだな。そのときの相場では、もう、百二十円以上どうしても払わないんだ。するとインド人は三十円損をしたという。日本人はそれでも二十円利益があると考える。日本人の場合、原価を割りさえしなければ、損と考えないが、インド人は原価を出しているのにマイナスと考えるんだ」

121

-/-このように極端な善と悪、美と醜が共存しているということは何としたことだろう。「朱に交われば朱くなる」と日本の諺にある。しかしインドでは必ずしもその諺は通じない。あるインドの友人は私のこの疑問に「私たちは徹底した自己中心主義だからでしょう」と答えた。たしかに他人を常に標準とする精神的、心理的、そしてまた物質的な面でさえ(女たちのサリーと装身具を除けば)、虚栄心というものをインドの人々は持っていないようだ。-/-

129-130

インドでは学者は本当に頭だけ使っていればいいのだ。その意味で学者の天国である。本を研究者が図書室に取りに行ったり、水を自分で汲んで飲んだとしても、小使は少しも嬉しがらない。かえって自分の仕事を奪われたと思う。-/-

はじめの頃は、私は同じ人間なのに、こんなにも社会的な差があり、また大きな経済的差のあることは余りにもひどい、と多くの日本人と同じように考えたのであるが、彼らは必ずしも私たちのように上下、貧富の価値観に立脚していないようである。それよりもそこには強い分業の理念が働いているようである。

152

「どうして待ったといって、そんなにお怒りになるのでしょう。待つということほど楽しいことはないのに。その時がくるまで、いろいろ想像して楽しいではありませんか。事が運ばれて、それですんでしまったら、それっきりでしょう。待つということは本当にすばらしいことなのに。そうしてそんなに私があなたをお待たせして悪いのかわかりません。-/-

反対にインドの人たちを待たせても決して怒らない。-/-

160/162

時間を守る・守らないというのは文明の進んだ・遅れたではなく質の問題なのではないか。そして逆にいうと日本人ほど時間を気にする民族はないという箇所。

164-165

少し横道にそれたが、要するに、インド人はあくまでも自己中心であるといういうことだろう。時間や年月日に自分を合わせるより、反対にそれらを自分に合わせて、自分のペースを絶対に守るということである。みんながそうだから、自分のペースに他人が合わなくても怒りはしないのである。実際、珍しいほどインド人は怒るということのない人々である。約束を違えても、また時間通りにやらなくても、インドの社会では認められるのである。

このインド人の特性は、一方云うまでもなく、仕事の能率の悪さ、消極的な実行力、近代社会における人間関係の不調、運営の能力の欠如となってあらわれ、激しく動く十九世紀以降、現代の世界経済において大きな弱点となり、インドの停滞性、後進性の癌となったものである。-/-インドのインテリたちはよくそれを認めている。-/-

178-179/186

生活水準の高まりが更なる欲求を生み、何が本当の豊かさなのか、物質的豊かさのもたらすものをヨーロッパとインドとの対比から説いた箇所。まあ、今日では聞き慣れてしまった言説ではあるが、それが逆に「不便さ」を週末に求めようとするスウェーデンの人々の生活に現れることになる。

植民地をもったことによって、すっかり生活水準の上がってしまったヨーロッパでは、植民地を失った今でもなお、その生活水準をさげまいとするところに、アジアに見られないほどのぬきさしならぬ経済的困窮が中流家庭にひどい。-/-

195

ルールを守るというイギリス人の特性について。

199

-/-しかし英国人はインド人に対してだけ冷酷なのではない。英国人同士でも冷酷なのだ。仲間でもルールを破ったものに対しては決して許さない。情状酌量などということは全然しないのだ。義理・人情を美徳とする日本人や、情の強いフランス人やイタリア人、約束というものに価値をおかないインド人などと全く正反対の素質をもっている。-/-

202

たしかに英国人は、ラテン系の国の人々や、インド人や、日本人のようにつねに情のある親切心を示さない。しかし一番こちらが困って親切が欲しいとき、必ず親切の手をさしのべてくれるのは英国人である。-/-

204-205

要するに、イギリス人の親切は、相手が最もそれを必要とするときに、きわめてスマートに行き届いて行われる。それと同時に、できるだけ相手に迷惑をかけないようにと細心の注意が払われるため、やたらと人に話しかけたり、人の機嫌をとることをさけ、他人が本当に必要としない限り、よきにしろ、あしきにしろ、個人は他人に刺激を与えたり、他人の中に入らないようにしている。日常生活において、英国人は礼儀正しく、またひかえ目であり、一見冷たく見えるのは、この故である。個人主義というものがこれほど徹底している国は他にないと思う。個人がこのように明確に社会における一つの単位であるから、それを結び合わせる人間関係において、ルール、そして信用がいかに大切なものかもわかってくる。このような社会における人間は、日本人では耐えられないほど、孤独で冷たく見えるということも確かにある。しかし、こうした自然の人間的な感情の抑圧は、常に思わず笑みを誘うユーモアや、推理を要する皮肉、みごとなスポーツの試合を思わせるような会話のやりとり、あらゆる他人に対する誠意ある親切、友情における強い信頼感というものの心地よい潤滑油をもつことによって、結構楽しく生きてゆけるのである。

しかしこうしたことができ、それを楽しめるというのは、全く大人の世界である。-/-

217

流行をつくらない英国社会人類学の学者たちには、ドグマがない。どんな優秀な学者でも自分の研究・方法論を決して絶対的なものだとは思わない。相当に自信をもちながらも、常に発展・修正しようとしている。こうした大学者の態度はとりもなおさず若い優秀な人類学者の出るチャンスを与える。そしてまた大家もこうした若い研究者に負うところも少くない。この学界の空気がまさに今日のすばらしい英国社会人類学をつくり上げているのだ。非常にすぐれた学者がいるのに、その下に彼をつぐような弟子の往々にしていない大陸の学界と対照的である。

237-238

女の人に見とれるということは、ローマでは趣味になっているらしい。-/-

244

東洋に植民地を持たなかったイタリアでは東洋が未だに未知なる神秘の国として映っているのだということ。

254

-/-私はヨーロッパに行く前は、いろいろな国の人々が集まれば、「インターナショナル」であると思っていたが、真の意味での「インターナショナル」な世界はヨーロッパにしか存在しないのではないかと考えるようになった。各国人が同じレベルに立って、自由に意見をはき、それが無知や、おかしなコンプレックスをもった偏見なしに理解されるという状態においてこそ、はじめて「インターナショナル」というものが実質として存在できるのはないだろうか。

263

スフィンクスの方に、砂の道を歩きながら私は考えつづけた。人間の偉大な創造物というのは、一定の、一国というような大きな社会内における富の偏在――あるいは集中と呼ぼうか――がなければ、とてもできるものではない。-/-

これは新鮮な箇所だった。なるほど、そういう見方もあるか !

268-271/273

エジプトの民族構成は意外に複雑なのだという話。そして、それを彩るレバンターンたちの存在。彼らはフェニキア以来の地中海貿易を担ってきた根っからの商人である。そういう「地中海」というものの捉え方。翻ってそういう意味での民族的葛藤の経験があまりにない日本人。

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