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オトキン 藤子・F・不二雄昭和四十年代の作品群

<序章 マンガ家・藤子・F・不二雄>

「藤子不二雄」は、故藤本弘と安孫子素雄の合作ペンネームである。
のちにコンビを解消し、それぞれ藤子・F・不二雄と藤子不二雄 A(正確な表記はマルの中に A)と名乗るようになるが、この稿では、藤子・F・不二雄の、昭和四十年代に描かれた作品について考察する。
この時代には、「ドラえもん (注1)」「キテレツ大百科 (注2)」「パーマン (注3)」などの名作が多く誕生しており、彼の作品史の中でも注目すべき時期と言える。
なお、やや専門的な内容のため、難解と思われる箇所には、適宜註釈を付した。

(注1) ドラえもん……未来の世界からやってきたネコ型ロボットがドジな少年を助けるために活躍する。
(注2) キテレツ大百科……先祖の残した書物をもとに不思議な道具を作り出す少年の話。
(注3) パーマン……パー着して悪いやつらをやっつけるぼくらのヒーロー。パワッチ!

<第一章 昭和四十(1965)年〜四十一(1966)年>

まず、昭和四十年には、「レインボー戦隊」がスタジオゼロ合作 (注4) で描かれている。
翌年、昭和四十一年には、「パーマン (注5)」が学習雑誌で連載される。

(注4) スタジオゼロ合作……スタジオゼロによる合作形式で描かれた。
(注5) パーマン……パー着して悪いやつらをやっつけるぼくらのヒーロー。パワッチ!

<第二章 昭和四十二(1967)年〜四十三(1968)年>

昭和四十二年には、「パーマン (注6)」がアニメ化され、週刊誌上での連載も開始される。
そして昭和四十三年になると、「21 エモン (注7)」の連載が始まる。
これらはどちらも「週刊少年サンデー (注8)」に連載された。

(注6) パーマン……パー着して悪いやつらをやっつけるぼくらのヒーロー。パワッチ!
(注7) 21 エモン……21 エモンが活躍する。
(注8) 週刊少年サンデー……子供向け週刊誌。週に一冊のペースで編集・印刷・配本されていた。

<第三章 昭和四十四(1969)年>

昭和四十四年には、前述の「パーマン (注9)」などが連載されていた「週刊少年サンデー」で、「ウメ星デンカ」の連載が始まる。
また、この年には「モジャ公」の連載も「週刊ぼくらマガジン (注10)」で始まっている。

(注9) パーマン……パー着して悪いやつらをやっつけるぼくらのヒーロー。パワッチ!
(注10) 週刊ぼくらマガジン……「モジャ公」などが連載された週刊誌。

<第四章 昭和四十五(1970)年>

この年は特筆すべき目立った動きは見られない。
「ドジ田ドジ郎の幸運」「カイケツ小池さん」などの短編が発表された程度である(他に「ドラえもん」など)。
また、虫プロ商事刊の虫コミックスより、「パーマン (注11)」の単行本も発刊された。

(注11) パーマン……パー着して悪いやつらをやっつけるぼくらのヒーロー。パワッチ!

<第五章 昭和四十六(1971)年>

この年は「新オバケの Q 太郎 (注12)」の連載が始まった年である。

(注12) 新オバケの Q 太郎……この作品の前身である「オバケの Q 太郎」は、昭和三十九年二月より、「週刊少年サンデー」で連載が始まった。
初期は「藤子不二雄とスタジオゼロ」名義で発表されており、藤子・F・不二雄単独の作品ではなかった。
ネームはほぼ F が担当。作画に関しては、主人公の Q 太郎を初めとするオバケたちや正ちゃんのパパ・ママなどを F、正ちゃん・伸ちゃんなどを相棒の藤子不二雄 A、ゴジラ・ハカセなどの脇キャラを石ノ森章太郎が担当したようだ。また、赤塚不二夫や北見けんいち等も背景その他で参加していたとの説もある。更に加えて、この作品は小学館の学習誌等でも連載されたわけだが、雑誌媒体によって合作形式も異なっていたらしい。
こうした合作形式のため、現在単行本の復刻が困難になっており、古書店でもプレミア価格が付けられている。非常に困る。
それはともかく、「オバケの Q 太郎」はアニメ化もされ、藤子不二雄最初の大ヒット作品となった。
「新オバケの Q 太郎」はそれを受け継ぐ形で発表されたリニューアル作品。
ネームとほとんどのキャラを F 氏が担当、正ちゃん・伸ちゃん兄弟の作画を A 氏が担当している。こちらも復刻は困難とされている。
ちなみに雑誌掲載時のタイトルは単に「オバケの Q 太郎」であり、「新」はてんとう虫コミックスに収録される際に付けられたものである。

<第六章 昭和四十七(1972)年>

あまり書くことがない年である。というか本当はあるのだが前章が長かった分のバランスをとるため、こちらは省略する。

<第七章 昭和四十八(1973)年>

この年には、筆者が生まれている。また筆者の幼少時の同級生もその多くがこの年に生まれている。第二次ベビーブームの影響だろうか。
筆者が生まれたのは長野県木曽谷にある県立木曽病院である。当時は非常に貧弱な病院であったが、現在は建て直されて大変りっぱである。
また、当時の筆者の住所が、木曽谷ではなく長野県上伊那郡辰野町 (注13) であったことは友人の間でも意外と知られていない。
両親の故郷でもある木曽谷に居を移すのは三才の頃である。また、昭和六十年に木曽郡日義村 (注14) から木曽郡上松町 (注15) に転居している。
それから高校を卒業して関東の大学に進学するまでの期間をここで過ごすことになる。
中学時代は吹奏楽部に所属。高校では吹奏楽部の他、郷土研究同好会・クイズ研究同好会に所属した。
木曽谷の人は総じて穏やかな性格で、自己顕示欲はあまり強くない。一般の人々が筆者の生い立ちについてほとんど知らないのもそのためである。
現在筆者が暮らしている東京都練馬区の住民でも、ここまで知っているのは私くらいであろう。

F 作品について言及すると、この年は、差別問題の絡みで現在陽の目を見ることのない「ジャングル黒べえ」や、有名な傑作短編「劇画・オバ Q」、阿久悠原案による「パジャママン」など、ファンには興味深い作品が多く発表されている。
それぞれについて詳しく紹介したいところだが、長くなってきたのでまたの機会に論ずることとする。

(注13) 長野県上伊那郡辰野町……JR 飯田線の起点・辰野駅があり、天竜川の上流部に当たる。
(注14) 木曽郡日義村……木曽義仲が幼少期を過ごしたことで知られる、美しい村である。
(注15) 木曽郡上松町……木材の集散地として栄えた町。

<第八章 昭和四十九(1974)年>

キテレツとか、ちょこちょこっと。

<第九章 結論>

長野県は全体に良いところであり、中でも木曽谷は素晴らしい。

<終章 今回の研究を経て>

わが国のマンガ文化を作りあげてきた天才作家の一人として藤子・F・不二雄を取り上げたわけだが、研究過程で多くの思わぬ発見をすることが出来た。
例えば、筆者の故郷である長野県木曽谷と藤子Fの意外な相関関係もその一つである。
もとより、藤子 F の出身地である富山県高岡市と木曽谷は、同じ中部・北陸地方として深い関係にあることが自明ではあったが、これほどまでとは思わなかった。
現在でも、木曽谷の書店では藤子 F の作品を置いているという。のみならず、店頭にない作品については書店自ら出版社に連絡して取り寄せるなどといったサービスまで行っているらしい。こうした良心的な書店の店主も、幼い頃オバ Q の巻き起こす騒動に腹の底から笑い、21 エモン達の冒険に胸を躍らせたのだろうかと思うと、胸にこみあげるものがある。
また、地元から藤子 F 人気を盛り上げていこうという熱い思いを感じるのも筆者ばかりではあるまい。
このような事例を耳にするたびに、筆者の研究もその深さを増していったのである。
今回は紙面の都合で、木曽谷の森林鉄道とその歴史、民謡「木曽節」の起源や木曽義仲の生涯について触れることが出来なかったのは残念であるが、それらについては藤子 F 作品を更に研究した上で別の機会に発表するつもりである。

藤子・F・不二雄。この不世出の天才について、今後とも研究を重ねていきたいと思う。加えて、木曽谷は冬寒いが夏は涼しくて過ごしやすいことも指摘したい (注16)

(注16) 指摘したい……パー着して悪いやつらをやっつけるぼくらのヒーロー。パワッチ!

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