ホーム
ささやき-えいしょう-いのり-ねんじろ!
壁の標識には、“邪悪になりきれない魔術士タダノの事務所”
営業時間はAM8時からPM7時
今、タダノは *たぶん仕事中*
断片 (このサイトのどこかにあるもの)
ホームにて最新の記事の全文を読むことができます。
(読書ノートはログインしないと全文が読めません。)
中国政治論集
王安石から毛沢東まで
書誌
| text | 唯野 |
| author | 宮崎市定 |
| publisher | 中公文庫 |
| year | 1989 |
| price | 760 |
| isbn | 4-12-201675-4 |
履歴
| ?.6.25 | 読了 |
| 2012.5.15 | 公開 |
感想
宋代以降の代表的な中国政治家の文章を抜粋してまとめた本。具体的には王安石・司馬光から林彪までと幅広い選択がされている。確かに私も中国古代の古典に接することは多くても、近世以降についてどうかといわれれば、魯迅くらいしかまともに読んでいない。著者はそこで中国政治史を官僚統治の問題として捉え、その文脈での文章の紹介を行っている。訳文とともに著者による解説が付されているので、特に読みにくいということもない。類書が少ない感じがするのでお勧めである。
抄録
7-8 cf.10
-/-今度の出版の最も大事な狙いの一つは、近世の中国文を日本の読者に紹介するにある。、由来、日本人のいわゆる漢文の読書は大たい唐宋八家文のあたりまでで止っていて、それ以降のものになると反って疎遠になる傾向があるから、それを是正したいというのが、監訳者の吉川博士の主張であり、私もそれには大いに賛成である。-/-
11
われわれの史観によれば、中国の歴史は三国頃から始まった長い中世的な混乱時代を脱却して、宋代から新しい時代に入ったと考える。われわれがそう考えるばかりでなく、宋代の知識人が現にそう考えたのであった。-/-
12
彼等(司馬光・王安石ら:唯野注)の政治論は従って、結局は官僚制の問題に帰着する。官僚の素質、政府の機構をいかに改善してその沈滞と腐敗を防ぐべきか、がその中心である。しかもこれは一千年前の宋代の問題に止まらず、現在の問題でもある。-/-
15
しかし天子がこのような荒治療を行って、しかも官僚陣を微動だにさせず、完全に威服することは余程力量のある天子でなければ出来ぬ仕業である。そこで天子の絶対権力を保持しつつ、内外の官僚全般に睨みをきかすための制度として、宦官による監視制度が成立した。
元来、宦官なるものは天子の家庭に用いられる奴僕であって官僚ではない。それだけに官僚を監視するには反って好都合な点もある。同時にその弊害も甚だしいものがあることは後漢、唐の歴史によって既に証明ずみである。それを知りつつもなお明の天子が彼等を利用せざるを得なかったのは、そこによくよくの事情がなければならなかったのであろう。
16
-/-民国以降の中国学者は、その民族主義の立場から清朝政治の欠陥を指摘するに急であるが、それ以前の明代がどうであったかについて深く議論を加えようとしない。-/-
17
清朝は中央政府においては、いわゆる満漢併用制を採り、中国人の才能を発揮させながら、傍から満州人官吏がこれを監視することによって、天子の独裁権を維持した。清朝がその信頼しうる股肱として満州人官僚を使役することが出来たのは、何よりの強みであった。明代に宦官が演じていた役割を、満州人官吏が果したわけである。この方がどれだけ信頼性があるかは、改めて問うまでもない。
地方政治においては一省の政治を総督と巡撫とに一任する政策をとった。総督、巡撫は明代から始まったが、当初においてはそれらは中央から派遣された監督官という性質が濃厚であった。しかるに清代においてはそれらは地方に密着した大吏、天子の名代という地位が定着してきた。総督、巡撫以下の地方官には概ね中国人を用いるが、その間、所々に満州人を混え配置する。-/-
17-18
清朝の中国支配の基礎が安定し、大盤石のように見えてきたのは、実は康煕帝の子、雍正帝のときであった。雍正帝は制度の上でも幾つかの改良を行い、前代に見られなかった清朝独特の味を出したが、同時に官僚の再教育についても常に注意を怠らなかった。
従来、清朝で最も人気のあった天子は康煕帝と乾隆帝とであり、両者を続けて康煕乾隆時代という呼び方さえある。ところがこの祖父と孫と、それぞれ六十年余の治世の中間にある雍正帝の在位十三年の方が、見方によってはより重要であったことを私は強調したい。少なくとも雍正時代を除外しては清朝の歴史を語ることはできぬのである。
20-21
太平天国運動はその目的も明確でなく、革命意識も低調で、清朝の権力を弱めたというよりも、寧ろ清朝を再武装させるという逆効果の方が大きかった。近代的な中国の覚醒は更に半世紀近くも遅れて、康有為らの変法自強運動を待たねばならなかった。この際に日本の存在は色々な意味で、彼等の思想及び運動の上に重要な影響を及ぼした。康有為らは伝統的な中国の古典学の素養の上に新知識を輸入した人たちなので、清朝を存続させながら、最も動揺の少ない方法で社会の脱皮を計ろうとした。当然の結果として、明治維新の政治がその模範にとるに好都合であった。日本は時によって学ぶべき師であり、時によって譲ることのできない競争相手であり、時によって相容れない敵手であった。そして最も比較し易い日本を目標とすることによって、中国独自の愛国精神が鼓舞されたのである。
23
陳独秀や呉虞は、康有為らよりも一歩進んだ西洋化を唱える。康有為らは中国の伝統に対して断ちがたい未練を感じ、中国文化を主体とした東西の調和を念願したが、陳独秀らに至って、すべての悪は中国の伝統から生ずると考え、一切の過去と断絶するのを理想とするに至る。しかし、この場合でも、彼等は盛んに中国の古典を引用する。但し了梁啓超が誇るべき中国の伝統として引用したのとは全く反対に、陳独秀らは古典をもって厭うべき旧弊、克服すべき罪悪として列挙するのである。-/-
24-25
康有為、梁啓超の一派と孫文、更には陳独秀らとは、それぞれが独自の人生観に立ち、独自の歴史観をもって、たがいに別のことを言い、時には鋭く対立するが、但しその間に共通した濃い色彩が根本に横たわっていることを見逃してはならない。それは強烈な民族主義の主張である。康有為が変法自強を唱えたのも、梁啓超が中国の武士道の再興を志したのも、中国民族の自覚を求めたのである。孫文の三民主義は三民と言いながら、その中心は何といっても民族主義である。-/-そしてこの民族主義は常に日本を目標として論議されたことを注意する必要があろう。中国の民族主義の確立に日本は他国では出来ない絶大の役割を果たしたのであるが、ただそれは順縁によってでなく、逆縁によって行われたことを一層注意する必要があると思う。
27
只一つ私個人の意見を述べるならば、毛沢東の最大関心事の一つは、党員気風の問題だということである。現在の人民共和国で党員は旧時の官僚に相当する。故に党員問題は以前の官僚問題を継承したものであり、何のことはない、九百年前の王安石の提出した問題が一向に解決されないで、少しく形を変えて現在の毛沢東を悩ましているのである。-/-
ここまで序説より。
32
すべての組織はそれが長く続くと、その間に停滞が始まり腐敗が起きる。-/-
33
特に人民共和国は成立の初め、成るべく抵抗の少ない方法をとり、凡そ帰順するものはその前歴を問わず、あらゆる階級、あらゆる思想の持主を収容した。そこで表面的には彼等を共産化したように見えて、実質的には共産党の方が彼等に同化される傾向が生じた。-/-
34
-/-自由社会においては自由の名の下に、悪徳が公然と行われても、自由主義自身は直接これを有効に抑止することができない。一方に弊害が生ずるくらいでないと本当に自由でないのが自由社会の泣き所となっている。ただ自由なるが故に個人の創造意欲が旺盛であり、すぐれた文化的所産によって弊害をカバーして余りあるのが自由主義社会の理念である。こういう点は毛沢東には分って貰えそうもない。
35/36
毛沢東の精神主義は功を急ぎすぎて農業生産の面で行き詰り、一九六〇年前後には深刻な食糧危機に見舞われた。これを打破したのが劉少奇一派による手直し政策であり、毛沢東は国家主席の地位を劉に譲らざるを得なくなった。-/-
先ず解放軍の側から党の要人に対する批判が始まり、紅衛兵が組織され、壁新聞や団交の戦術で劉少奇一派が次々に失脚せしめられた。-/-
43
帯着問題学――現実の問題を抱えながら学ぶ、或いは活学活用というのは、別にいま始まった方法ではない。儒教というものがそもそも政治哲学であり、学問をするのは学者になるためではなく、それを政治に応用するためなのである。しかしそれはいつも斬次に章句の学、すなわち本を読むための学問に後退する。そこで絶えず儒学の革新が唱えられるわけであるが、特に陽明学が学問の実践を説いた。-/-
ここまで林彪「毛沢東語録前言」より。
48 cf.49
-/-但しここに「自由主義を排撃する」という、その自由主義は、よく読むと、われわれの言葉でいえば、liberalism のことではなくして libertinism (放逸)のことである。この両概念の混同はどうして起ったのであろうか。、思うに革命をのみ人生の目的として追求し続けてきた毛沢東には、真の自由主義の良さが全然分らないのではあるまいか。-/-
61
さて以上を通観すると、ここに列挙された弊害は別に新しいものでなく、従来も絶えず指摘されてきた官場の習気の継続と見るべきものが多い。それが根強い伝統であると同時に、一方からは常に非難の的となり、改革が要求されていた事柄である。毛沢東の言葉は従来の皇帝や、政治の責任者たる大臣の言ってきたことと、実はあまり内容の変わらぬものなのである。それが従来ついに大なる効果を挙げることができなかったのは、要するに権力のあり方に起因するのではあるまいか。権力は強ければ強いほど、また集中すればするほど、権力者の腐敗する虞(おそ)れが多い。-/-
62
但し、今次之文化大革命が果して所期の目的を達成することが出来るであろうか。またその目的のために『毛主席語録』を読ませるような教育方法が、果してどこまで有効であろうか。長い人類の歴史を見てきた私の目からすれば、遺憾ながら些か悲観的とならざるを得ない。私はある程度の軍隊生活の経験を有するが、大正末年には「軍人に賜わりたる勅諭」の類は、別に暗礁を強制されることがなかったが、当時の軍隊幹部はまだ人間味があって気風もよかった。「勅諭」が全員に暗唱することを命ぜられるようになって、軍隊はすっかり駄目になっていったのである。
ここまで毛沢東「反対自由主義」より。
64-65
中華民国が成立した当初、新思想の根源地は依然として上海であった。後世でこそ外国租界は帝国主義の橋頭保として悪名を蒙らせられたが、当時にあっては租界こそ中国にあって唯一の自由な別天地であった。おりしも大総統の袁世凱は皇帝になろうという野心を次第に露骨に現わしはじめ、革命党員は漸時に内外の重要な地位から追放された。一九一九年五月、袁は遂に国内において皇帝を僭称し、翌年をもって洪憲元年と改元する布告を出したが、革命派の陳独秀はその直前にあたる九月、上海において「青年雑誌」を発刊し、翌年これを「新青年」と改めた。-/-
陳独秀は一八八九年の生れ、安徽省懐寧県の人。辛亥革命、及び袁世凱に対して行われた第二革命に参加。第二革命に失敗し、上海で新思想の宣伝に従事した。しかし当時は単にラジカルな自由主義者に過ぎず、袁世凱の死後、一九一七年に国立北京大学から招かれると、これに応じてその文学科教授となった。当時の学長は蔡元培であり、広く俊秀を招いて陣容を整えたので、やがて北京大学が中国における新しい思想学問の総本山と見なされるようになり、これには彼と共に胡適、李大釗、銭玄同らが与って力あった。軍閥の段祺瑞内閣に反対して上海に逃れ、中国共産党を設立し、中央委員長として活動したが、やがて失脚追放された。路線の相違から現今の人民共和国では異端の扱いを受けているが、その功績は没すべからざるものがある。一九四二年病死した。
65-66
陳独秀は日本に留学したことがあり、その文章の中に日本の造成語を用いるので甚だ分りよい。尤もこれは彼一人のことでなく、当時の一般的な風潮であり、西洋の術語は日本訳されて中国へ流入し、これが中国思想の発達に貢献した点は大きい。
70
この陳独秀の指摘はただ半面の事実を語ったもので、中国人は個人としては最も面子を尚ぶ国民なのである。だから個人的名誉のためには格闘を辞さない。ただ、皇帝政治の下では政治はことごとく皇帝に一任して人民の与り知らざる所であった。政府と人民とが完全に遊離していた。従って国民という自覚が生じなかった。そこで後に紹介しようとする梁啓超のような学者は、従来中国の国体が天下国家であって。自他の区別がなかったが、これを対立を認める戦国国家に造りかえねばならぬ、というような議論を立てる。
75-76
中国には昔から忠臣孝子の美談があって、人を泣かせ、人に賞められてきた。しかし現今の文明社会の原理から考察すると、忠孝を重んずる宗法社会には四つの悪い結果が生ずる。第一に個人の独立自尊の人格を破壊する。第二に個人の意思の自由を束縛する。第三に個人の法律上に平等な筈の権利を侵害する。(同一の犯罪で、尊長が卑幼に加えた時と、卑幼が尊長に加えた時とで刑罰に差異がある。)第四に依頼根性を養成し、個人の生産性を阻礙(そがい)する。東洋人の社会に生ずる卑劣・不法・残酷・衰弱の現象はこの四者から生ずる。善い結果を得んためには善い原因を探し求めねばならぬが、それには家族本位をやめて個人本位主義を採用することだ。
ここまで陳独秀「東西民族根本思想之差違」より。
96-97 cf.107
そこで考えて見ると、孝とか、敬とか、忠とか、順とかは、皆な身分の高い者に利益があって、身分の低い方には不利になっている。そこで、奨励するために名誉を与え、勧誘するために禄位を給して、均衡を計ろうとしても結局、下層と上層との間には、極めて不平等の存することを否定できない。
100
論語に「孝なるかな、惟(こ)れ孝」と書経の文を孔子が引いているように、一途に孝行を励めば、それは世間を感化することになるので、「それも政治のうちだ」とある。これは家の中の孝と、国における忠とを区別せぬのだ。この調子で孝の範囲をおし広めてゆくと、-/-家族制度と専制政治とが、ぴたりと膠着して両者を判別することができなくなったのだ。君主専制政治が家族制度を利用したやり方は、論語の中で有子が最も明確に言い表している。-/-
ここまで呉虞「家族制度為専制主義之根拠論」より。
123
-/-当時、共和国が成立しても、一般知識人の頭脳は依然として旧式で、新国体、新制度を理解することができなかった。儒教主義の教養もなお権威を保ち、愛国の名の下に国粋を維持しようとする運動が一方に存在し、ともすれば進歩が逆転して反動化する危険があった。その中心人物はなんと、戊戌の政変の大立者であった康有為であり、陳独秀らはこの保守主義に対抗して闘争しなければならなかったのである。
124
しかしながら、康有為もその二十年前においては最も進歩的な思想界の指導者であり、遂に光緒帝を動かして戊戌の変法に踏みきらせたほどであったが、頑迷派の弾圧にあい、危険分子として追放されたのであった。二十年の歳月は、かつての最先鋭思想家を、進歩を妨害する老朽政略家に変形させた。恐らく康有為自身がそれほど変ったのではあるまい。この間における中国の変わりようが甚だしかったのである。
131
地球上の諸国を見わたすと、何れも変法によって強くなり、保守によって滅びている。両政策の結果これまでにすっかり分っている。陛下の聡明をもって、国際情勢は変法できる国は存続し、出来ない国は滅亡し、徹底的に変法すれば強国となり、少しく変法する位では滅亡を免れぬことを観察の上、諸大臣と共に病源の存する所を見きわめ給わば、療病の処方は自ら明らかになる筈です。そもそも現今の病症は、伝統を墨守して改革を知らざる点にあります。列国競争の激しい時代に、太古の徳治主義を夢みるのは、これは例えば盛夏に厚い毛皮を着、河を渡るに高い座席の車に乗るようなもので、熱射病にかかるか、水中に沈没しなければ不思議というべきです。
138
-/-願わくば陛下は、ロシアのピーター大帝の心をもって心の師とし、日本の明治の政治をもって政治の師とせられんことを。その中でも時代も距離も遠からず、習俗もほぼ同じく、既に成功のめどがつき、その後の推移も順調であり、名人の書画の真蹟が残って模写しやすく、宮室衣服の設計図の寸法が適当で直ちに製作にかかれるようなものを求むれば、日本の明治維新に範をとるのが最も便利です。
140
日本もその初めは保守と攘夷とを唱えること中国と同様であったが、幕府の封建制が中国と異なっていた。天皇が宮城を守り、一層変法を困難にした。然るにその後速やかな成功を収めたのは変法の初めに、向かうべき方向を定め、実施の道筋を立てておいたからである。考えてみると維新の始めに当って、為すべきことは甚だ多かったが、最も重要な点は三箇条であった。第一は大いに群臣を集め公約して国策を定めたこと、第二に貢士対策所を設けて賢才を召集したこと、第三に制度取調局を開いて憲法を定めたこと、である。-/-
148
そこで制度局を設けるのが、変法を行う根原である。今の行政省庁、六部九寺は大てい保守派の官吏が長であるから、天子から命じて急に変法を行えと言っても実際には不可能である。そこで別に制度局を立ててその大綱を統べさせ、下に十二局を置いて職務を分担させる。-/-
160
この上書があって後、康有為は光緒帝から謁見を賜わり、いよいよ新政の幕が切って落とされるのであるが、不幸にしてそれは守旧派の大臣の反対、殊に進歩派と目されていた袁世凱の裏切りによって、脆くも崩壊し去ったことは周知の通りである。-/-
ここまで康有為「統籌全局疏」より。
169
そんなら具体的にどんな歴史があったか。中国民族が強くなったのは、二次的には異民族との軋轢によって練成された結果である。-/-
185
ところがそれが漢代以降になると、人間関係は上と下の関係に整理されてしまい、人間はこの枠に閉じこめられて、外へ飛び出すことがむつかしくなった。そこで梁啓超は漢代の初め、史記の世界でその叙述を打ち切っている。梁啓超は武士道という観点から、この時代的転換を捕えたのであるが、実はもっと広い社会史的な立場から見ても、これは十分に意味のある把握であったのである。
200-201
すると中国はもし長く戦国時代を続けて、各国の勢力が均衡を保って勝負のつきどころがなかったならば、果してそれが利益であったろうか。答えて曰く、利害はもちろん知ることが出来ぬが、大勢の上でそのようになることは許されなかったであろう。中国の地勢は自然が統一に向うような地勢である。面積はこのように広漠で、人口もこのように厖大であるから、文明幼稚の時代には、権力を専ら中央に集中するのでなければ平和を保つことができぬ。すると専制は統一に附き物なので、一人の強者が多くの弱者を支配する形式を用いざるを得ないのは当然である。しかし、もし国境の外に列強が現れて中国と関係を持つに至らなければ、これ以降ずっと永遠に、固定した秩序を守って、なんとか姑息な平和を楽しむことが出来たかも知れない。ところが全世界が実力競争の大勢となってきたからには、そうは問屋がおろさなくなったのだ。
206
梁啓超の文章は大風呂敷で有名であるが、しかしそれは拡げ放しでなく、ちゃんと纏める
こつ を知っている。前に滔々と述べてきた大歴史を、ここで巧みに纏めにかかった手並みはさすがに老練である。彼のこの文章は、修辞法の上からも大いに学ぶべきものがある。
210
この一文でも分るように、梁啓超は強い民族主義で中国人の愛国心を呼び醒まそうとした。実は当時の中国人には国を愛そうにも、その国という観念が確立していなかった。中国は統一国家の出現以降、天下国家の形態をとり、外国と対立するという観念が薄れてきた。実際にその必要がなかったし、ない方が中国人の利益でもあった。もし蒙古の元王朝のように、強さに任せて何処までも国境を広める政策を取られては、中国人も外国もたまったものではない。現代の不安が、アメリカやソ連のように自給自足できる国が、その領土や勢力圏を拡張しようとして一寸も譲らない所から起きているのを考えると、中国の天下国家の理念には取るべき点があったのである。
ここまで梁啓超「中国之武士道自叙」より。
223
またしても将軍たちの名前の羅列である。これが後に証拠となって論功行賞が行われるのであるから、何べん重複しても構わない。これが実用的な文章と単なる文学作品との差異であるが、それだけ生々しい真実性、具体性がそこに現われる。
244/245
-/-太平軍も湘軍も初期においては軍規が厳粛であったが、長い戦争の後に次第に規律を失って堕落し、掠奪が日常の行事となった。湘軍の後には商人群が随行し、将兵の掠奪品を買受け、或いは給与や他の所得を故郷へ送り届ける業務を行った。曽国藩が湘軍について、「暮気(ぼき)用うべからず――ヤキがまわって使えなくなった」と歎じたのはこの理由による。-/-
湘軍の兵卒も末期になると、利益の獲得や立身出世の幸運を狙っての戦闘であった。-/-
ここまで曽国藩「金陵克復摺」より。
254/255
南京陥落で大勢は既に決定したが、地方にはなお数十万の太平軍が残されて各地で転戦している。李秀成が普通の人情をそなえた人間ならば、何よりも先ず彼等の生命のことを考えずにはおれない筈である。そこで曽国藩に勧めて彼らを招降させ、生命だけを助けてやりたいと運動するのは極めて自然の成り行きである。盗賊、もしくは叛乱軍を招降するのは中国に昔からある慣行で、そのために招安という特殊な言葉さえできている。招降した上は安堵させるという意味である。
これに協力することは、李秀成にとってはもちろん転向を意味する。しかしこれについて彼自身はっきりと、既に天王洪秀全が死んで国も滅びた以上は自分は単なる一個人だ、という意味のことを言っている。
李秀成の眼はさらに西洋勢力の浸透の上に注がれる。清朝といい太平天国といっても、要するに彼は中国人なのである。太平天国なき今、これに対処する方策を、彼の経験の上から得た知識によって考案するのも、極めて自然の人情である。
256
李秀成の言う所はいかにも尤もな点があって、決して分らぬではない。しかし李秀成を助けるような素振りでも見せたら、どんな非難、中傷、嫌疑を蒙るかも知れぬ。到底出来ない相談である。太平天国余党に対しても、先方から降参すれば首脳者だけを罰して追随者を赦免する手はあるが、全員を赦免する権力は彼にない。西洋との大局を論ずるのは、現今の曽国藩には越権と見られる虞れがある。
261
原文の「
今 而扶洪姓」は明らかに先 の誤り。こんな所にも李秀成が如何に急いで筆を走らせたかが分る。「感載」の二字、自筆の原文には当字を使って「敢帯」とあるのを、羅爾綱が書き改めたのに拠る。私がこれを見た時、この文章は到底自分の力では読めぬと匙を投げかかった。なおこの外にも同様な当字が無いとも限らぬからである。しかしまた考え直して、中国文にもこういう文章もあるものだということを読者に知って貰うのも無意義ではない、と思ってあえて採録した。
281
最初に天王を助けた東西南北の四王のうち、西王と南王は早く戦死し、東王と北王がこうして殺し合って死んだので、第五に位する翼王の石達開が残って天王を補佐したが、天王は翼王を疑い、翼王もまた危惧を抱き、天京を脱出して各地を転戦し、最後に四川省に入って全滅するが、この際有力な将兵が翼王に従って天王の許を去った。
天京の内乱は太平軍の戦力を弱めたが、同時に組織の若返りと、あまりに強かった広西郷土色の払拭に役立った。殊に下層から新人の擡頭する機会を与えたので、李秀成や陳玉成らもこの際に浮かび上った人達である。これ以降、太平天国の性質が一変し、従来の宗教色、広西色と共に革命意識も薄れ、単なる戦闘団体となった。
282
太平天国の致命的な欠陥は文官官僚の欠如である。太平軍は特殊なキリスト教的宗教をもって儒教を排撃したので、従来の教育を受けた知識人はこれに加担せず、極めて低品位の代書人級を用いて文官の代りとした。従って人民を統治する能力がなく、土地を占領してもそれを領土化することができなかった。中央政府では猶吏、人才の欠乏に苦しんだ、というよりも欠乏を意識するまでに至らなかった。こうして天王の無能な親族が国政を壟断(ろうだん)したので、これでは到底清朝に取って代る資格はなかった。公平に言って、早く滅びれば早く滅びるほど人民のためになる存在であった。
ここまで李秀成「李忠王自伝」より。
300
彼の努力の大半は結局、独裁政治の下における官僚制度をいかに運営すべきかの問題に向けられた。皇帝と地方長官との意思疎通、地方官吏の待遇、官吏の綱紀振粛、中央政府の構造などについて、清朝が前代の威風を清算して、新たなる方向を決定したのは実に雍正時代であった。
301
彼の施策は後世に甚だ深い影響を及ぼしていることを、世人は気付かないかも知れない。しかし本書に採録した極めて少数の後世の文章だけによっても、それは証拠立てられる。光緒帝に対して変法自強を勧めた康有為は、雍正帝のような指導力を、誤って弱体な光緒帝に期待したと見られる。康は独裁の制度のみを知って、制度の運用は人にあることを忘れた。陳独秀や呉虞が攻撃した儒教政治は、実は雍正的体制であった。康有為は皇帝独裁を前提として変法が可能であると考えるのに対し、呉虞らは、これだから皇帝政治は困りものだと排撃する相違がある。
変法自強と思想革命の二段階を経過した後の人民共和国時代になって、毛沢東の言う所が雍正帝の言葉に共通する点があるのは甚だ興味深い。一は官僚に対し、一は党員に対して、という相違はあるが、独裁者がその手足に向かって要求する道徳はそれほど変ったものではあり得ない。人間の性質も社会の本質も、そんなに変わるものではないというのが私の立場であり、さればこそ歴史の研究に意義があるのである。
306 cf.324
朋友の交際はどこまでも私的なものである。政治は公けのものであるから、そこへ私事を持ちこんではならぬ。この雍正帝と全く同じようなことを、毛沢東の反対自由主義の第一種の所で述べている。しかし他人事ではない。現在の日本でどんなに公私混同が行われているだろうか。或いは行われていないだろうか。-/-
319
しかし官僚の気風は、やはり長年の苦い経験の堆積によって生じた自己防衛手段でもある。天子は油断のならぬ存在である。君主から何でも言え、と命ぜられたのを真に受け、思った通りを申立てて、反ってあとで咎を受けるようなことがしばしば起っている。知くは百家争鳴の折に、正直に発言して追放されたなどの悲喜劇が起ったのは耳新しい例である。
ここまで雍正帝「御製朋党論」より。
333
総督は一省の長官であるが、辺境や海岸地方の総督は外交事務を処理した。中国王朝は天下国家であって、中央政府には外交を担当する役所がない。ただ外国の朝貢を扱う役所だけあるが、朝貢は外交とは言えない。そこへ何か不満を申立てても、総督の所へ行け、と言って追い返され、取上げて貰えない。英国の阿片戦争までそのような状態が続いたのである。
そこで日本担当の総督は浙江総督であった。もちろん日本は当時鎖国で、幕府は国人を海外へ渡航させなかったが、もし渡航しても今度は清朝がそれを受付けなかった。但し両国の貿易は中国人が長崎へ来て行うことを、両国ともに承認していた。特にこの貿易は清朝にとって必要であった。それは日本の胴を輸入して銅銭を鋳造しなければならなかったからである。-/-
335 cf.355
浙江総督管巡撫事とは、浙江総督にして巡撫の事務を兼ね管理する意味。、清代の制度で総督は多く二省に跨がり、巡撫は一省だけを管轄するが、両者には統属関係がなく、官位に上下があるだけで、職務上は対等である。これは両者とも権限が強大であるから、互いに制肘せしめて独善を防ぐ趣旨であるが、それは同時に責任転嫁の弊を生ずる。そこで雍正帝は、李衛のような親任する大官には一省の政治を任せきるため、総督にして巡撫を兼ねるという特別措置をとった。すべて皇帝のすることは先例に拘われる必要はなかった。
342
普通の商人が日本へ着くと、みな長崎の城内で一地域に押しこめられる。この周囲は高い石垣の塀で仕切られている。内部に民家があって、商店が多い。この地は土庫とよばれる。総門という入口があって日本兵が守っており、中国人が外部へ散歩に出たり、情報を集めたりすることを禁ずる。到着すると商品を取り上げられ、日本官吏がそれを発売する。日常の飲食は向うから配給される。帰国の前にその費用はすべて差引かれる。こちらの商品と交換した銅塊や日本商品は、それまで商店に預託しておいたが、すべて返還される。向うで招聘した中国人は土庫と違った秘密の場所に住い、長い間たってまだ帰ってこないので、真実の消息は聞き出す方法がない。ただ戦船建造の物音は自分で確かに聞いたという人がいる。以上が余姓の洋客の報告である。
360
以上で知られるように、清朝の外交政策は概して言えば常識的であり、穏健であった。但し陸上では蒙古、新疆方面で激烈な戦争に巻きこまれ、領土拡張を結果したが、海上では清朝の国力として更に膨張政策をとることが不可能でなかったにも拘わらず、あえて遂行しようとしなかった。これは満州民族が大陸民族で海洋民族でなかったことにも起因する。
361
-/-つまりは官僚の体質から来ることで、由来中国読書人は中国以外のアジアに対し殆ど関心を持たぬこと日本人以上である。中国人は日本をも朝鮮をも如何なる意味においても学ぼうとせず、その分件をも読もうとせぬ。日中両国の相互の誤解の根は非常に古い所にあるのである。
ここまで李衛「探聴日本動静摺」より。
363
明は最後に内乱のために滅びるが、その前触れはずっと以前から萌していた。明の政治が紊乱した大きな原因は、天子が宦官を利用したため、宦官が権力を握って地方の政治に干与するに至ったためである。
368
-/-銭は重さの単位で一両の十分の一、唐の開元通宝銭は丁度重さが一銭であり、この重量はそのまま正確に日本に伝わって一匁(三・七五グラム)となった。ゼニは銭(せん)の昔の転訛である。-/-
ここまで曹時聘「蘇州民変疏」より。
375-376
蘇州付近と対蹠(たいせき)的な後進地域は陝西甘粛の辺境地方である。陝西という省はかつて長安に都のおかれた時代には、東西交通の余沢を受けて生産が刺激され、他から羨まれるほどの繁栄ぶりであった。ところが近世になると、すっかり社会が変って、海岸からも運河の線からも懸け離れた陝西は全く社会から取り残され、土地の生産力も乏しく、見るかげもない哀れな後進地域に転落した。もしそこへ旱魃飢饉のような天災が起ると、交通不便な事情もあって、目もあてられぬ惨状を呈する。そして政府も租税収入の多くない僻地であるのを見くびって碌な対策もしてくれない。地方官吏も中央に発言権が少なく、いよいよ実情が壅蔽(ようへい)されて天子へ上聞が達しない。達した頃にはもう手遅れになっていて、収拾できない混乱が支配しているのである。
ここまで馬懋才「備陳陝西大飢饉」より。
387 cf.388
明代の政治は歴代のやり方と大いに違った点があって、それは大官が頻りに罪を獲て殺されていることである。初代の太宗が既にスターリン紛いの大々的な粛清をやって、大臣や大将を片端しから殺し、その子の成祖永楽帝が更に反対党に対して無慈悲な殺戮を行った。この気風はどうやら前代の蒙古の遊牧民族的な影響を受けているらしく、明王朝というものは決して普通に考えられているような、純漢民族風な中国王朝ではなかったと考えられる。
390
軍民と軍と民とを併称するのは、元代の特徴で、元代の軍隊は世襲で、一般の人民とは別の戸籍を持っていたからである。-/-
401
官僚制度の陥りやすい弊害は、手数が複雑でしかも責任の所在が明らかでないことである。これは日本に限ったことでなく、世界中ほぼ同様で、文明の古い所ほどその弊が深く浸みこんでいるようである。
ここまで胡祇?早u論体覆之弊」より。
402
官僚はもと人民の為にあるべきだが、とかくそれが逆になって、官僚の為に人民がありがちになる。ところが独裁君主はこのような官僚のあり方を好まぬ。それは別に独裁君主が人民の為を思うばかりではなく、反って人民はただ独裁君主の為にだけあるべくして、官僚がその分け前に与ってはならぬという、むしろ嫉妬心の現われとも解せられる。
403
由来、監督官なるものは、真の監督に止まっていることが非常にむつかしい。その権限が強大なるために、何時の間にか実務官に変質することがあり、その実例は中国史上に多く見出せる。一方、監督は実務でないから、本質的には無くてもすませるものである。そこでとかく有名無実、単なるトンネル機関になりやすい。こうなると全くの冗吏、無駄役人である。しかし官僚であるからその存在理由を主張する。元来は人民の為のものである筈の官僚が、単に官僚存在のための官僚に変化する。その上に更にその地位が汚職の為などに利用されては、人民は全くたまらないのである。
409
官僚制の特色の一は、不要な統制を好む点にある。-/-
ここまで葉適「監司之害」より。
419
中国の社会は宋代に入ってから大きく変る。しかしそれは、宋王朝が成立するとすぐ急に何もかも変ったのではない。初代の太祖の時代まだ前の五代の続きで、太祖の政治も武を重んじ、文を軽んじた武断政治であった。次の太宗の時から文治政治の方向が決定されたが、三代目の真宗の頃までは、宋はまだ後世から考えられるような宋ではなかった。宋が宋らしくなったのは四代の仁宗の世を待たねばならなかった。
420
彼等は朝廷における文官官僚の母体であるが、文官が政権を壟断したのは、宋の対外政策が消極的であったのと関係する。もし宋が漢唐のごとくに外国戦争に成功して領土を拡張したならば、軍閥勢力の継続が強行され、文治政策の成立に大なる妨害となったであろう。幸か不幸か、宋は北方の契丹に対しても、西北の西夏に対しても、武功を収めることが出来なかったと共に、凱旋将軍に率いられた軍閥勢力の擡頭をも見ないですんだ。
453
-/-そこで聖王なる帝王は悪事がまだ芽を出さぬ先に摘みとり、禍いがまだ形に現れぬ先に封じこめる。すると、天子は実際にその恩沢を蒙りながら、なぜそうなったかに気付かない。これが最上の政治だ。
ここまで司馬光「進五現状」より。
473
王安石「上皇帝万言書」司馬光が華北の人であるのに対し、王安石が江南の人であったことは、当時において重大な意味があった。彼の本籍及び生地は五代時代においては南唐の領土である。南唐という国は五代の分裂の間に最も経済的に栄えた土地で、唐代の文化はこの地に保存された。そして華北よりも一足さきに文治を重んずる財政優先の国家形態をとっていた。そのため文弱に流れて北方の宋に討平されたが、武力的に被征服者の地位に立たされた南唐出身の文化人は、やがて宋の中央政界に進出し、宋政府を武力優先国家から財政優先の文治国家に造り変えてしまった。-/-
482
王安石はその言わんとする所を、これまでに既に大方は言い尽しているようである。政治の問題は官僚問題であり、官僚問題は官僚素質の問題であり、官僚素質の問題は教育問題である、と言うにある。これは実に政治史の本質を衝いた鋭い洞察であって、もうこれ以上は何も加えるものがない。後はただ実行の方法いかんにある。実際政治家として王安石以降、慮りのここに及ぶもの、清代の雍正帝、現代の毛沢東がややこれに近い。
495
このように礼と法とをもって制約を加え、それに天下が服従したのは、決して刑罰が厳しかったばかりではない。為政者に誠意があったからで、先ず君主の側近から進んで礼法を守り、もし礼法に違反した者を罰するには側近者から始めた。上流の貴人から始めとして君主の意向を尊重するということが人民に理解されると、人民の中にも礼法を犯す者が少なくなる。
500
業績を考査するから、知能才力のある者は能力を尽して成功に努めるので成就しない事業はない。本来、怠惰な人間は、臨時に努力するような姿勢を示しただけで成功が覚束なく、やがて不成績がばれて刑罰と恥辱が免れぬことを思えば、本気に出来るだけの努力をせざるを得なくなる。初めから無能な者はそれを自覚して逃げ出す外はない。在任が久しければ不成績の罪が匿しようなく、処罰を免れぬからである。自分が逃げ出す位だから、他人を陥れてまでして一身の昇進を計るようなことはやる筈がない。
501
慎重に採用し、適処に使い、職に長く居らせ、更に仕事を委任した以上は十分な権限と責任を持たせておき、細かい法律で活用を掣肘するようなことをしない。堯舜が百官を支配し、多くの技術yさに仕事をさせる時も、これ以外の法はなかった。-/-
519-520
王安石が描いた宋代の社会は、千年後の日本に共通な点をもっている。人は欲望に追われて齷齪(あくせく)するが、さてその欲望は考えて見れば、世間に対する見栄が十の八九を占める。別荘や車や衣服はもちろん、食べ物までが他人の意向に左右されるならば、いったい自分の生活には何が残るのだろう。礼制があればこんな問題はいっぺんに片づくところ。-/-
522 cf.525
宋は太祖以来、官僚を寛大に待遇し、滅多に死刑に処しなかったが、汚職の貧吏だけは特別で容赦しなかった。-/-
542 cf.541
官吏を取るに慎重でなく、使い方が不適当であり、在任が久しからず、仕事を任せ切りにせずしていちいち法律で束縛する結果、賢者、能者の官吏も、不肖舎、無能者の官吏も、業績は殆んど変らぬ。そこで朝廷では、この人は賢能で大いに信頼できると思っても、年功序列の順がこなければ㎡職務を与えて昇進させることをせぬ。もしそんなことをすれば世間が心服しない。
548
-/-当時、朝廷の言論はよほど自由であったと見える。いかに王安石でも、よくもこんなに先輩たちを無視したような言葉を臆面もなく言えたものだと思う。もし現在の日本で、省の課長あたりが総理大臣の前でこれと似たような事を言ったら、その結果はどうであろうか。
553 cf.554
先王が天下を治むるには、問題は人の為さざることではなくして、能わざる点にある。人の能わざる点よりも、自己の勉めざる点にある。何となれば、人の情として得んと欲するものは善行であり名誉であり、高爵であり厚利である。先王はこれを餌として天下の士に臨み、よく教えを守って政治を為す者には、悉くその欲するものを与える。士にして能力のない者は問題にならぬが、いやしくも能力のある者ならば、だれがその欲望をすて、天下のための人才とならずにおられようか。だから私は、人をしてやる気を起させることは問題でなく、その人に能力があるか否かが問題だ、と言うのである。
560
王安石もまた自分の意見を迂闊――世間知らずだと謙遜すること、司馬光と全く揆を一にする。王安石が実際に新法をやり出すまでは司馬光ら、いわゆる後の旧法党政治家たちの意見も殆んど変る所なく、一様に政治の革新を必要としていた。それが即ち迂闊の言なのである。-/-
566
政治家は一たび失脚すれば木から落ちた猿同様で、すぐ過去の人となってしまう。それと同じように、政治論は新聞記事のたぐいで、ちょっと時間がたてば、もう史料としての価値だけしかなくなる。ところが王安石の万言書くらいになると、一千年近くたった今日でも、立派な政治論として傾聴すべき問題を提起し、生々として人に迫るものを持っている。それは単に現象を追いまわしたものでなく、現象の背後に匿れている真実を把握しているからだ。
569
-/-ところが、今から千年近くも前の王安石の時代においては、学問の意味も今とは違い、専門もまだ確立していなかった。政治学も哲学も、歴史学も教育学も、みな混然として儒学の中に包摂されていたから、そのまま役に立つ、自ら実践するための学問を期待したことは怪しむに足りない。しかしそれから千年ほども経った二十世紀の現代は、すべてが分化し、専門化せねばならぬ時代である。-/-
571
そこで歴史学とは純粋に人間の知的な要求に根ざした学問だといえる。いいかえれば、自然科学者が自然現象に対すると同じように、歴史家は人類の過去を純客観的な対象として研究するのである。-/-しかし、歴史学の導き出した成果は、何人がこれをどのように使用しようとも、それは全く別問題である。-/-
573
人生に必要なのは政治ばかりでなく、政治が他に優先するとも限らない。中国は古来政治を尊重する国体であったが、しかしまた別に政治を卑しんで個人の自由を第一とする隠者の世界が存在し、帝王もこれに干渉することができなかった。帝王は時に臣とするよりは師として仰ぐ学者、宗教家を有するをもって王者の徳とした。あまりにも多く政治に求めすぎることは、権力の崇拝に通ずるものがあり、政治闘争は多くの場合、権力に対するコンプレックスの裏返しにすぎぬものである。

